2003年目次

icon4月29日
icon5月24日
icon6月13日
icon7月3日
icon7月5日
icon7月17日
icon7月24日
icon8月2日
icon8月14日
icon8月15日
icon8月24日
icon8月28日
icon9月6日
icon9月11日
icon9月14日
icon9月27日
icon10月2日
icon10月3日
icon10月6日
icon10月12日
icon10月19日
icon10月29日
icon11月2日
icon11月8日
icon11月13日
icon11月29日
icon12月15日
icon12月16日
icon12月31日

2003年4月29日(金)

 バルセロナでのスペイン語の授業が始まって、今日で一週間と二日がたった。たいてい僕は午前中に部屋で勉強してから、午後一時半に学校へ行く。
 僕が住んでいるのは語学学校で契約しているアパート。旧市街の細い路地の中にある築百年以上はたっていそうな古い建物の五LDKで、いろんな国からきた学生たちと共同生活をしている。中国人と共同の僕の部屋には安物のベッドと勉強机が二つずつあって、狭い路地に面した窓からは昼間でも陽の光はとどかない。
 そんな部屋からこの物語は始まる。

 最初の週の最初の日に簡単な会話をしてクラスわけをした。レベルは全部で六段階あってバシコ(ベーシック)からエレメンタル(初級)、インテルメディオ一(中級一)、インテルメディオ二(中級二)と難しくなっていくが、ある程度の会話ができると思われたらしく僕はエレメンタル(初級)の後半あたりのクラスに入った。
 ずっと前に一年間中南米を旅していたことがあるから、いくつかの単語やフレーズは知っている。挨拶や自己紹介くらいはできるし簡単な質問に答えることだってできる。でも文法は全く知らない。アルファベットの読み方すら知らないのに、過去形三種類の使い分けなんてできるわけがない。初日の授業は何もわからず、ただぽかんとみんなの会話を眺めているだけだった。
 二日目から最も簡単なバシコ(ベーシック)にクラスを変更。長い長いスペイン語との戦いが始まった。

 たぶん学校によって国籍のかたよりはあるんだろうが、僕の通っている私立の外国人向け語学学校の生徒は大半がヨーロッパの白人たち。イギリス人、オランダ人、スウェーデン人、フランス人、ドイツ人、イタリア人など。それ以外でたまにいるのがアメリカ人、日本人、ブラジル人、中国人など。年齢は二十代が中心だけど三十代の人もたくさんいる。
 ヨーロッパ内では人や文化が頻繁に行き来しているからなのか、三つぐらいの言語を話せる人も珍しくない。スペイン語の勉強も頭の中の構造を変えずに、単語だけを置き換えながらすらすらとおぼえていく。特にイタリア語やポルトガル語やフランス語をすでに話せる生徒はものすごく習得が早い。一週間ほどで見違えるように上達する。授業はそんな大多数のヨーロッパ人にあわせてすすんでいく。

「日本では何をしてた?」
 顔を近づけながらアゼルバイジャン人が聞いてくる。ほかの生徒はみんな休み時間になると英語や母語で話そうとするけど、彼だけはスペイン語で話しかけてくる。
「日本で働いてた。ここに来る前は、機械のメンテナンスをしていたよ」
 僕は英語が苦手なので、ほかの生徒に話しかけられるとなるべくスペイン語にしてくれと言っている。もちろんスペイン語もたいして話せるわけではないけど。

「技術者か?」
「まあ、そうなるのかな。君は何をしていた?」
「おれはアゼルバイジャンで建築の仕事をしていたんだ。日本の建築技術はすごいな」
「そうなの? あまり知らないけど、そうかも」
 学校は街の中の古いビルの一室にあり、そういう教室が周辺のいくつかの建物に分散している。それぞれに小さな部屋が五つほどあって七、八人ずつ各クラスに分かれて授業を受ける。教室内は当然禁煙なので、休み時間になると小さなテラスはタバコを吸う生徒でいっぱいになる。コーヒーの自動販売機に行こうとする人を、壁に背中をこすりつけるようにしてよける。英語にスペイン語にオランダ語に、あともう二種類くらいの言語がまわりを飛び交っている。
「なんでバルセロナにきたの?」
 僕がアゼルバイジャン人に聞く。
「彼女がこっちにいるんだ」
「へー、スペイン人?」
 いや、今の僕たちの語学力でそれはないか。今度はトイレに行こうとする人をよけながらアゼルバイジャン人が説明する。
「ロシア人だよ。地中海を旅行していたときに知り合ったんだ」
 教室に戻る生徒やトイレに行く生徒、人が入れ替わるたびに通勤バスの中みたいに誰かが動いてスペースをつくる。新しい教室が工事中でもうすぐ完成するって聞いたけど一体いつだろう?
「彼女のお父さんがバルセロナで仕事をしていて、こっちにきてるんだ」
「彼女はスペイン語しゃべれるの?」
「おれよりはましだけど、そんなにはしゃべれない。今この学校で勉強してるよ」
 サマータイムのために夜の九時まで沈まない太陽が窓の外できらきらと反射する。大きな襟の黒いシャツを着た二十代後半のアゼルバイジャン人は、薄い色のサングラスを指で少しずりあげて、顔を近づけながら話を続ける。
「こっちの大学に入りたいらしいんだ。まだ少し先だけどね」
 今テラスに出てきてタバコをくわえたのは日本人のようだ。振り向くと僕たちのクラスの先生が教室に入っていくのが見える。
 この日の授業は現在分詞、『何々をしています』というやつ。過去形も未来形もまだ知らない。だからクラスメートとの会話は本当のところなかなか進まない。動詞の活用をぶつぶつ言いながら、頭の中で単語を一つ一つ探しながらコミュニケーションをとる。
 でもまだ聞こうとしてくれるだけいい。学校から一歩出ると普通のスペイン人は「何言ってんだ?」って顔で大げさにまゆを八の字にしかめる。
 スペインもEUの一員なので、この国では何をするにしてもヨーロッパ人のほうが有利になる。だから、ここで生きていくためには彼らと同じようにやっていてはだめだ、と僕はそう自分に言い聞かせている。ただ彼らに負けたくない一心で毎日部屋で勉強を続ける。
 今のところほんの少しずつだけど確実に上達していると思う。

 授業のあと、同じ学校でスペイン語を勉強している日本人の女の人と偶然会い、オペラを見に行くことにする。
 大道芸人が並び観光客であふれかえるランブラス通りの喧騒の中を南へ向かって歩く。道の両側にはみやげ物や洋服を売る店が軒をつらね、カフェやレストランが遊歩道にテーブルを並べている。このまままっすぐ行くとコロンブスの塔がある海に出て、逆に少し戻るとカタルーニャ広場に出る。バルセロナを観光してこの道を通らない人はおそらくいないだろう。ヨーロッパ三大オペラハウスの一つであるリセウ劇場はこのランブラス通りにある、らしい。海のそばに住んでるから毎日前を歩いていたけど知らなかった。
 始まる時間と金額を確かめてから、近くの店に入り食事をすることにする。僕らはパエージャを食べて、これから見るオペラのことや日本での生活について話をした。
 そういえば僕はクラシックを聞きに行ったことなんかない。誰かにさそわれてじゃなきゃ来ることなんてなかっただろう。人と人との出会いをあらためておもしろいと感じた。
 劇場での一時間半は思っていたよりも短く、僕たちはスーツやドレスを着ている人たちに混ざって夜のランブラス通りに吐き出された。彼女は今週いっぱいで日本に帰る。メトロ(地下鉄)へと下りる階段で振り向いた笑顔に手を振りながら、これからこの街で出会って別れるだろうたくさんの人たちのことを想像した。
 僕はランブラス通りの人ごみの中を海に向かって歩き、中央郵便局へと続く路地に入る。古い建物が隙間なく立ち並ぶゴティック地区(旧市街)に僕の住んでいるピソ(アパート)がある。そこは大きな扉のある古い建物で、中二階のその部屋には一人用から三人用まで寝室が五つあり、最大九人まで住めるようになっている。
 でもここは語学学校の寮なので住んでいるのは全員外国人で、大半がヨーロッパの若者たち。ひっきりなしに誰かが泊まりにやって来る。ベッドが全部生徒でうまることはなかなかないけど、友達や恋人や誰だかわかんないのがそれぞれの国から遊びに来ていて、僕が部屋に帰るとたいてい知らない人と出会う。
 それだけの大人数で、トイレとシャワーが二つずつ、キッチン一つにリビング一つをシェアしている。狭いキッチンには汚れた電子レンジといつもいっぱいの小さな冷蔵庫があって、中には名前が書かれた牛乳のボトルや各自の食料品などがつまっている。開けるとトマトが転がり出てくるようなその冷蔵庫の中には、カビの生えたチーズや賞味期限の切れた鶏肉やまだ開いていないツナ缶などがいっしょくたに押し込まれている。棚には入れた本人も忘れていそうな食材がころがり、流しには使い終わった食器や鍋がたえず積み重なっている。
 リビングにはテレビとテーブルと破れたソファーがあって、たいていここで何人か、たまって英語でおしゃべりしている。
 静かに勉強する環境ではないけど、いろんな人と会えるので楽しい。

 アパートに帰ると、同じ部屋に住んでいる中国人のユンロンが晩ご飯をつくっていた。二十代後半の彼はもう二か月以上バルセロナに滞在しているが、まだあまりスペイン語を話せない。普段も勉強しているところを見たことがない。
「食事はすんだ? よかったら食べない?」
 中華包丁を持ったユンロンが狭いキッチンで振り返り僕に向かってスペイン語の単語をいくつか言う。意味は大体こんな感じだろう、語学力は僕もたいして変わらない。
「ありがとう。じゃ僕はご飯を炊くよ」
 普段の会話はスペイン語だけど、単語がわからないと筆話になる。英語をしゃべれない彼はアジア人で同じ境遇の僕が同室に住むことになって安心しているのかもしれない。いろいろと気を使ってくれる。でもいまのスペイン語じゃ仲良くなるにも限界がある。一緒の部屋で生活していて気まずい雰囲気になることのほうが多い。

 食べ終わるころに、ユンロンの友達がやってくる。四十代なかばくらいの中国人で、友達にしては年が少しはなれている。ユンロンが食器を片付けに席を離れている間、僕は話しかけてみる。
「バルセロナにはもうどれくらい住んでいるんですか?」
 僕のスペイン語の質問に彼は早口の中国語でまくしたてる。あれ? 僕のスペイン語がまずかったんだろうか? ユンロンの友達だから中国人だと思われたんだろうか? いや、今三人でいたときの感じではそんなことはないはずだ。僕は何がおきたかよくわからずに、なんとなく二人で沈黙する。
 戻ってきたユンロンの説明によると、彼は中国語しか話せないらしい。そう説明されてもやっぱり僕にはよくわからない。本当に全くスペイン語がわからないようだけど、旅行者じゃないのにどうやってスペインで生活しているんだろう。
 ユンロンとなぞの中国人は大きなビニール袋に毛布を入れて、自転車に乗って慌てて出て行く。時刻は午後十一時過ぎ。なぞだ。

2003年5月24日(土)

 スペイン語を勉強しはじめて一か月以上がたった。クラスメートにさそわれるビーチやフィエスタ(パーティ)もなるべくことわって、家で勉強を続ける。同じピソのオランダ人は僕の勉強時間に驚いて心配そうにたずねる。
「この街は好き? 楽しんでる?」
「うん、楽しいよ」
 いや、本当にそうかな? 本当に楽しめているか? 一瞬心の中で戸惑うがそう答える。でもうそじゃない。楽しいさ、毎週ごとに上達している実感がある。
 友達と出かけたり、一人で何かをしようとするたびに言葉の壁を肌で感じて机に戻る。明るい日差しの中で町中にあふれる会話や笑い声、意味がわからなければ単なる音でしかない。たくさんの人たちの周りで繰り広げられるたくさんの人生、言葉がわからなければ行きかう人々も風景の一部分のように通り過ぎていくだけだ。勉強する以外に道はないんだよ。
 もちろん言葉があまりできなくても気にせず周りの人たちといつも楽しそうにおしゃべりしている人たちだってたくさんいるし、実際僕もバックパッカーとして旅していたころは言葉がわからなくてもコミュニケーションが楽しかった。でも今は楽しみたいという気持ちよりも早く次のステップへ進みたいという気持ちのほうが強い。
 無口で人見知りで頑固で意地っ張りの僕は、多少むきになって一人で勉強を続けている。

 昼ごろになると日本語図書館を探して行ってみる。小さなビルの中の看板も何もない一室に入ると、中は確かに図書館だ。でも雰囲気は古本屋っぽい。数人の日本人が黙って本を読んだり、本棚を眺めたりしている。中にはスペイン人もいる。壁の小さな掲示板には日本人への手書きの張り紙や広告が重なり合いながらとめられている。
『スペイン語教えます』
『日本へ帰国するので変圧器ゆずります』
『書道教室』
 仕事の求人も一応あった、メモしておこう。
 去年の夏には一二〇円くらいだったユーロのレートも今では一四〇円。日本でためてきたお金も両替するとずいぶん目減りした。少しでもいいからユーロで稼げるようになりたい。収入がないとなんだか落ち着かない。
 僕がスペインに来た目的は住むこと。そのために半年間の語学学校に入学手続きをして、学生ビザをとってきた。
 そして僕が日本を出る前に立ててきた目標は、この六か月間で自立した生活をできるようになること。バイトして自分でかせいだお金で生活して、勉強して。でもやっぱり無理なんだろうか。インターネットで集まる情報にいい話は一つもなかった。
 新聞や本をながめるが日本を出てまだ一か月と少しなので、日本語にうえている気はしない。これまで同じピソに住んでスペイン語を勉強していたイギリス人を見送るため、僕は部屋に帰ることにする。

 彼女とは何度か一緒にご飯を食べたり勉強したり、疲れたときには励ましてくれたりもした。
 みんなで写真を撮ってから、スーツケースをおす彼女とアメリカ人のクリスと僕は海沿いの大通りへ出る。ひろったタクシーに荷物を積み込んでから、左右の頬を軽くあわせて一回ずつのキス。やしの木が並ぶ道路に太陽の光がふりそそぎ、空港へ向かって小さくなっていく車の後姿をクリスと二人で目で追う。
 バルセロナで人を見送るのはもうこれで二人目。ほんの短い間だったし、おたがい今のスペイン語じゃたいした会話もできなかったけどやっぱりさみしい。もっと言葉がわかればもっといろんな会話ができたんだろう。何をしていても結局スペイン語の勉強につながっていく。
「このピソもこれからどんどん人が入れ替わっていくんだろうな」
 クリスが言う。
「さみしくなるね、君はいつまでいる?」
「学校はあと三週間くらい」

 部屋に戻り簡単な準備をして近くの山へマウンテンバイクで走りに行くことにする。自転車は飛行機で日本から運んできた。気分転換には山の景色を見ながら汗をかくのが一番いい。
 バルセロナの南東側には地中海が広がり港や人口ビーチが続く。北西側には広い登山道で整備された標高四〇〇メートル程度のなだらかな山があり、週末にはジョギングで汗をかく人や散歩する家族連れなどでにぎわっている。
 山の頂上の教会の前には小さな遊園地があり街中をみわたせる。たくさんの人たちの笑い声が飛び交い、僕はタバコに火をつける。坂道を登ってきたばかりの体に汗でぐっしょりぬれたティシャツがはりつき、山の上をぬける風が心地よい。薄い雲が遠くの空を覆い、地中海の向こうの水平線はかすんで見えず、真上の広い空は青く澄んでいる。
 太陽の日差しに励まされて僕は自転車のペダルにまた足をのせた。

2003年6月13日(金)

 僕と同じアパートに一か月間住んでいたアメリカ人のクリスは、今日で語学学校の授業が終了する。そこで、夜一緒にご飯をつくってみんなで食べることになった。午前中に授業を変更している僕は、午後の授業のクリスと学校で待ち合わせをして買い出しに行くことにする。
 学校は新しい建物に移っているが、入り口などいたるところでまだ工事中だ。広いテラスにはパラソルのついたテーブルといすが並び、ガラス張りの教室はどの部屋も明るい。以前の狭くて薄暗い教室よりずっといい。
 ほかにもたくさん今日で最後の生徒がいるのだろう。二、三のグループはまぶしく日の照りつけるテラスのパラソルの下でワインを飲んでおしゃべりしている。一応これも会話の授業だ。クラスが終わる時間が来るとなごりおしそうに後片付けをして、お別れのあいさつを始める。
 一通りのあいさつをすませたクリスがこっちを向いて言う。
「おまたせ、さあ行こう」
「大丈夫? もっと話しなくても。今日で授業は最後なんだろ」
「うん、あいさつはすませたよ。授業は今日で最後だけどまだ一週間ぐらいバルセロナにいるからね」

 僕たちはいつものようにのんびり歩きながらいろんな話をした。動詞の活用を間違えたり、出てこない単語を教えあったりしながら。
 中国人の経営するアジア食材店で、寿司とてんぷらをつくるために醤油と海苔とごま油とチリソースを買う。その後メルカド(市場)で買ったのは、マグロにエビにカニそれとアボカド。
 今日の調理はクリスにまかせてある。彼の頭の中には完成品がイメージされているんだろうけど、僕にはまだどうもぴんとこない。
 買出しをすべて終えた僕たちは、旧市街の中をピソへ向かう。道端の壁には立小便のしみがいくつも残り、あちこちの小さな商店からはアラブ音楽がながれる。人や車をぬうようによけながら、狭い路地をカニとか醤油とかをぶらさげて歩く。
 僕とクリスと、トルコ生まれでスウェーデン育ちのエメルは、三人も入ったら肩がぶつかりそうな狭いキッチンで、寿司とてんぷらをほんとに肩をあてながらつくった。
「チリソースにつけたマグロを巻き寿司にして、さらにそれをてんぷらにするの? そんなの聞いたことないよ」
「友達が日本食レストランで働いていて教えてくれたんだ。おれ日本食大好きなんだよ」
「うん、知ってるよ。いつも僕の醤油つかってるからね」
 彼はアメリカ西海岸の大学生で、体も大きく、頭もいい。歯並びのいい笑顔にはいつも自信があふれている。
 僕がてんぷらを揚げる間、クリスとエメルは昼間でも照明が必要な薄暗いリビングのテーブルの上で巻き寿司をまいている。クリスは英語で説明しながら器用に海苔を巻く。しみがついて破れたソファーに座って、オランダ人二人が珍しそうに見ている。
 エビのてんぷらの巻き寿司にマヨネーズとごま油を混ぜたソースをかけて、オーブンでかるくきつね色になるまで焼く。アメリカではこれが日本の食べ物だって思われてるんだろうな。そんな不思議な寿司をアメリカ人がつくってスペインで食べるなんて。世界はやっぱり広いんだろうか? それとも狭いんだろうか?
 日本人、アメリカ人、トルコ人、カナダ人、オランダ人、イギリス人、中国人、その場にいたみんなでビールやワインで乾杯する。
「こんな寿司日本じゃ絶対にないよ」
 誤解されないよう一応僕はアピールする。でも、わからないだろうな。
「おいしい。わたし日本のお寿司大好き」
 いや、だから違うんだって。
 クリスはこの一週間後くらいにバルセロナを出る。彼女とスペイン国内を少し旅行した後マドリーへ行くらしい。

 勉強机に座って日記を書いている僕の後ろでは、二つ並べたベッドで中国人のユンロンとその友達のチャオが眠っている。狭い路地に向かって開け放した木枠の窓から風は入ってこず、かわりにバル(バー)からもれる音楽と、通りを歩く酔っ払いの歌う声が聞こえる。
 僕は足音をしのばせて、薄汚れた白い壁を黄色く照らすランプのスイッチを切った。

2003年6月21日(土)

 今日は中国人たちと一緒に餃子をつくる。
 リビングの古い大きなテーブルをきれいに拭いて、その上でユンロンが皮をこねる。僕が白菜を刻んで、ウェイリンがひき肉と混ぜる。
 ユンロンは僕のルームメイトでチャオはその友達、ここ最近は僕たちの部屋で一緒に住んでいる。ヤンとウェイリンは彼らの女友達で、同じ語学学校でスペイン語を勉強している。バルセロナで出会った彼らは中国の出身地も同じらしい。
 僕がバルセロナに着いた当時、ユンロンは毎日夜中まで帰ってこず、スペイン語も話せないし勉強もしていなかったので、どうしたんだろうと思っていたけど、やはりアルバイトしていたらしい。最近は授業にも出るようになり部屋でも少しずつ勉強しているので、ようやくコミュニケーションがとれるようになった。バイトもやめたようだ。
 チャオは中国ですでにスペイン語をおぼえ、通訳の仕事をしていたことがあり、バルセロナで半年間の語学学校を終え、秋から大学で経済を学ぶという。
「ヤンはいつも僕をたたくんだ」
「ユンロンが悪いからだよ」
 ふざけあいながらところどころスペイン語になる。
「ヒトシ、どう? 仕事さがしてるんだろ。見つかった?」
「全然だけど別にいいよ。今のところあわててないし」
 ユンロンのノートパソコンからは中国のポップスがながれ続け、部屋中に中国語が飛び交う。チャオが丸くのばした皮で、僕らは具を包んでいく。大きいのや小さいの、普通の三日月型のとか丸いのとか、きれいなのやそうでないの、次から次へと丸めていき、ヤンが大きな鍋でゆでていく。ルームメイトのオランダ人たちも教えてもらって楽しそうに具を包む。
 サロン(リビング)に集まって調理している僕たちアジア人を、ヨーロッパ人が写真にとっている。
「チャオはいつまでバルセロナにいるの?」
「どんどんこの街が好きになってきたからさ、大学を出た後こっちで仕事を探そうと思っているんだ」
 どんどん包んで、どんどんゆでて、どんどんお皿にあげていく。そろそろ具がなくなってきた。
「ここにたまに来る中国人のおじさんだけど何者なの? スペイン語まったく話さないんだけど」
「結婚式で司会をする人だよ。もとアナウンサーなんだ。すごくいい声をもってる。才能だな、あれは」
「え? 何それ。神父さん? でもスペイン語しゃべれないのに?」
「いや、違うよ。スペインにはたくさんの中国人が住んでる。彼らが結婚式をあげるときには詩をよむ人が必要なんだ。宗教とは関係ないよ。この国の中で中国人が結婚するたびに彼がよばれるんだ。いい職業だと思うよ。それにバルセロナには大勢の中国人がいるからスペイン語なしでも生きていけるんだ」
「なるほど。スペインでそんな仕事があるんだ」
 あまった皮でさくらんぼの実をいくつか包む。中国の醤油と黒酢に唐辛子をまぜてたれをつくり、サングリアで乾杯。餃子の皮はよくこねていたからうどんのようにこしがあり、にんにくの入っていない具は家庭によって味が違うのだろう、たしかにうまい。さすが中国人。さくらんぼ餃子があたった人はその場でイッキ飲みらしい。
 「おいしい。」
 「あー、ユンロンさくらんぼだ。」
 バルセロナでは中国語だけで生活している中国人たちがたくさんいて、スペイン語を全然話せない二世も中にはいるらしい。

2003年7月3日(木)

 六月にはいってからバイトを探し始めている。求人はない。バルセロナにある日本食レストランのリストをインターネットで見つけて書き写し、一件づつ電話していく。
 お金に困っているわけじゃないけど少しでもユーロを稼いでおきたい。勉強は順調だけど普段接するスペイン人は語学学校の先生だけなので、スペイン語の勉強にもプラスになるんじゃないかとも思った。やっぱり僕は少しあせっているのかもしれない。
 でも、たとえ仕事は見つからなかったとしても、面接をしながら実際にバルセロナで生活している人たちに直接いろんな話を聞くのは、実のところ楽しいし刺激にもなっていると思う。

 今日も半分あきらめながら電話をかける。さすがにもうたいして緊張しない。何十回も呪文のように言い続けてきたいつものセリフを繰り返す。
「僕は日本人です。仕事を探しているんですが、日本語の話せる人とかわってもらえますか?」
 出てきた人は「ワタシ、ニホンゴスコシダケネ」そういった後スペイン語でまくしたてる。あたふたと答えているうちに、今日の午後四時に面接がきまった。直接会って話すと何とか会話についていけるが、電話だとうまくいかない。スペイン語のアクセントや訛りもまだうまく聞き取れない。
 最近面接に行った日本食レストランのオーナーは中国人だった。その時のお店は月曜日から日曜日まで年中一日も休みなしで毎日七時間働いて、一か月の給料が五四〇ユーロ。いくらなんでも安すぎるし、勉強との両立も不可能だったので丁寧に断った。

 スペイン語で履歴書なんか書いたことはないけど、とりあえず連絡先や経歴などを紙に書いておく。メモしてある住所に着いてもイメージしていた日本食レストランは見当たらず、間違えたのかと思いうろうろするが、よく見ると看板には『kataoka』とかいてある。確かにお店の名前は間違いない。おそるおそる中に入ってみるが、全然和食っぽくない現代的で落ち着いた普通のレストラン。いや、店内にながれている音楽は中島みゆきだ。間接照明には和紙が使われている。まだお客さんの残っている店内に入り、ウェイターのスペイン人に話しかける。寿司のカウンターで働いている料理人は中国人のようだ。
「すいません、仕事の面接に来たんですけど」
 中の事務所に通されて責任者らしき人が出てくる。名前はホルヘ、四十代くらいのスペイン人だ。語学学校に通ってはいるけど先生以外の普通のスペイン人と実際に会話をする機会は実はあまりない。片言のスペイン語で今の状況を説明する。
 通っている語学学校は十月までで、その間生活するお金は十分持っているが、できればもっと滞在したいので仕事を探しているということ。授業が午前中にあり、まずはスペイン語の勉強をしたいので午後か夜のどちらか片方だけ働きたいということ。バルセロナについて二か月ほどなので、まだ学生の居住許可証ができていないということなど。
 文法も単語もずいぶん間違えているが、何とか伝わったようだ。
「アイスのフライはやったことがあるか?」
 和風の作務衣のような制服を着たホルヘは唐突に聞く。
 メキシコの日本食レストランで三か月間アルバイトしていた時はメニューにあったけど、その時僕はウェイターだった。日本で働いていたお店ではアイスのフライなんかなかった。
「やったことはないけど、教えてもらえればたぶんできると思います」
 結局今週末の金曜日と土曜日、つまり明日とあさっての二日間、試験期間として働かせてもらうことになる。この仕事が好きじゃないと思ったらそのとき言えばいいらしい。ということはこの二日でクビになることだってあるんだろう。
 緊張するが楽しみだ。たぶんアイスのフライが僕の仕事なんだろう。ともかくバルセロナでの初仕事だ。できるかぎりがんばろう。

2003年7月5日(土)

 面接の翌日、朝九時半から始まる授業が一時半に終わるとすぐに出勤、途中からだけど二時から四時までのランチの時間帯に働いた後、夜は八時から午前一時ごろまで仕事、部屋に戻るのが夜中の二時。土曜日は学校がないからお昼十二時半には出勤。
 二日だけだからがんばるけど、これをずっとは絶対に無理だ。宿題どころか授業にもいけなくなる。

 ランチタイムの出勤二時は遅いようだけど、スペインの食事は全体的に遅く、普通お昼ご飯は二時から三時くらいで晩ご飯は夜の九時以降、だから二時に出勤して一通りの準備を終えるころにデザートの注文が入り始める。
 そう、僕がまかされたのはそのデザートとコーヒー。これまでそこをやっていたリカルドに一つ一つ教えてもらいながらメモをとる。
 リカルドは四十歳くらいのメキシコ人で、日本にも十年くらい住んでいたことがあり、日本語も上手で日本のこともよく知っているが、特に和食については相当うるさい。もともと料理人じゃないらしいが独学でいろんな料理を勉強して知っている。日本では商社に勤めていて億単位のお金を動かしていたことがあり、アメリカの日本食レストランでは週に一〇〇〇ドル稼いでいたという。日本にいたのはもちろんバブルのころで、アメリカも今より景気のよかったころの話だろう。
 でも、なんでそんな人がこんなところでバナナのてんぷら揚げてるんだろ。

 客席は一階と地下一階にあり、地下にある調理場では洗い場まであわせると十人近くの人間が働いている。焼きそばや焼き鳥など火を使うところはほとんど中国人だ。ホールにも中国人と日本人が二人ずつくらいいて、残りはスペイン人。
 忙しい時間帯になると、早口になる周りのスペイン語がまったくわからない。カードに書いたオーダーの走り書きも読めない。やばい、これは大問題だ。
「リカルド、いいのかな? こんなんで。仕事全然まわってないよ。この二日でクビになるかも」
 いくらなんでもこれじゃほかの人にも迷惑だろうと思い、仕事の合間に日本語で聞いてみる。
「大丈夫、大丈夫。最初はみんなそうだよ」
 本当だろうか? 何を聞いても彼は大丈夫としか言わない。

 二日間のお試し期間をすべて終えて、面接をしたホルヘのところへ話にいく。事務所にはもう一人年配の日本人女性がいて通訳もしてくれる。共同経営者だろうか。
「この仕事は気に入った?」
 一応皿洗いとかじゃなくいろいろ任せてもらえるから楽しいことは楽しい。バルとかにも置いてある業務用のエスプレッソマシンもはじめて使った。
「はい、まだちゃんと働けてないけど早く仕事をおぼえたいです」
「じゃあ、来週から正式に来てもらうようにするから。これまでどおりの時間帯でよろしくね」
 え、クビじゃないの? いいの、こんなので? いや、それよりこのままの時間帯なの? 面接のときに午後か夜かどちらかって言ったつもりだったんだけど。
「勉強する時間がほしいので午後か夜だけっていうのはできますか?」
 いっぺんにホルヘの顔が曇る。僕が夜だけになると昼間やる人間がいないらしい。リカルドは別のポジションをおぼえて移動するんだろう。向こうの言うことももっともだけど、これじゃ続けられない。日本人女性はホルヘと少しスペイン語で話をした後、心配そうに僕に聞く。
「八月に入ったら夏休みになって三週間ほどお店を閉めるから、それまで今の時間帯で何とか来れないかって言ってるけど」
 一か月は長いけどせっかくはじめた仕事ここで手放したくはない。当分仕事をおぼえるのに専念してもいいか。
「わかりました。やってみます」

 お店の外に出ると小雨が降っている。くわえたタバコに火を点けて、肩をすくめながらメトロの駅へ歩く。調理場の床で油のついたナイキのサンダルが、雨で濡れた歩道の上で少し滑る。土曜日の真夜中のプラットホームのベンチでは泥酔した男が眠りこんでいて、酔っ払った若者たちがふざけあって笑いあう。どこからかマリファナのにおいが風に乗って通り過ぎる。
 地下鉄を降りて階段を上がると、どしゃ降りの雨が石畳をたたいていた。ほかの通行人たちと一緒に骨組みだけ残った屋台の屋根の下で雨をよける。オレンジ色の街灯がぼんやりとかすんでいた。

2003年7月17日(木)

 今週も二日間学校を休んだ。今日は文法の授業を二時間受けたあと、会話の授業はさぼって屋上の日陰で昼寝をする。
 毎日夜の二時には部屋に帰っている。体は疲れているはずだし睡眠時間も足りないはずだけど、なんだかうまく眠れない。こうやって学校に来ているだけでもたいしたもんだ。
 起き上がって大きなあくびをしたあと、ガラス張りの教室で勉強している白人たちを横目で見ながら、僕は語学学校を出て仕事へ行く。

「オラー(こんにちは)」
「オハヨウゴザイマース、ヒトシサン」
 僕のスペイン語のあいさつに返ってくる返事は日本語だ。日本人のお客さんも多いのでみんなあいさつくらいできる。
 最初の一週間一緒にデザートをやっていたリカルドは、サラダ場へ移動してドレッシングや酢の物の仕込みをしている。
 僕は冷蔵庫の中を見て足りないものを補充していく。中国語の話し声と中華鍋をふる音が絶え間なく聞こえ、壊れかけのFMラジオからスペイン語のポップスとノイズが半々ぐらいでながれ続けている。てんぷらや焼肉やサラダの注文が飛び交い、ウェイターとウェイトレスがあわただしく調理場の前の通路を行き来する。
 僕のところにはオーダーが入るまでもう少し時間がある。昨日小さなさいの目に切ってタッパーに入れておいたバナナやリンゴを春巻きの皮で包んでいく。ウェイターたちのスペイン語に混ざって聞こえる日本語と中国語、お盆とかお皿とかグラスとかフライパンとかがぶつかる音が冷房のまったくない調理場の中にこもってうずまく。

 そのうち寿司やかき揚げ丼や焼きそばなどを食べ終えたお客さんから、少しずつデザートの注文が入ってくる。
「ヒトシー、抹茶アイスにゆずのムース一つずつー」
「ヒトシー、アイスのフライにフルーツの春巻き」
「ヒトシー、カフェ・コルタード(ミルク入りコーヒー)三つで一つはサッカリンをつけて」
「ヒトシー、カフェ・コン・イエロ二つとカフェ・コルタードが一つ、カフェ・コルタード・コルトが二つで、うち一つはレーチェ・ナチュラルで」
 なんだって? えーと、氷の入ったグラスをそえたコーヒーが二つ、ミルク入りコーヒーが一つ、少なめのコーヒーに熱いミルクを入れたのと常温のミルクを入れたのと一つずつ。コーヒーってこんなにいろんな種類が必要なものなの?
 小さなフライヤーにパン粉をつけたアイスと果物の入った春巻きを放り込み、冷やしたお皿にアイスクリームを並べていく。ムースを飾りつけたら、揚がったアイスや春巻きをカットして盛り付ける。挽いた豆をエスプレッソマシンにセットしてカップを置き、お皿にティースプーンを用意する。湯飲みに日本茶を入れてポットに紅茶のティーバッグを入れ、冷めたミルクを温めなおす。ウェイターを呼んで、出来上がったデザートをどんどんだしていく。
 早口のスペイン語はもう聞いていられない。注文をメモした伝票のカードを見ながらどんどんさばく。
「ヒトシー、テ・ハポネス・コン・アスカル一つ」
 砂糖入りの日本茶? そんなひどいことできないよ。
 お昼の営業時間は午後四時まで、三時半にオーダーストップがあり、調理場のみんなは掃除を始める。でも僕の持ち場はデザートとコーヒーなのでこの時間が一番忙しい。四時を過ぎてもお客さんは帰らない、もちろんウェイターも帰れない。注文がまばらになってきたころ、立ったまま、まかないを食べて後片付けをはじめる。
「どう、デザートは全部おわった?」
 通りがかったウェイトレスにお客さんの状況を聞いて、換気扇の下でタバコをふかす。
「一階のテーブルが一つだけ、まだのところが残ってるよ」
 五時近くになってようやく釈放。地下鉄に乗って旧市街のアパートに帰る。

 二時間ほど休憩したあと午後八時に再び出勤、調理場の他の料理人たちは焼き鳥を串に刺したりてんぷらのエビをそうじしたり仕込みをはじめている。
 僕はフライヤーのスイッチを入れてポットのお湯を沸かし洗い場からカップやお皿を運んだ後、残り少なくなってきたソースをつくる。九時ごろになるとお客さんが増えてくるようで調理場の中は再びせわしなく注文が飛び交う。デザートの注文を待ちながら、昨日焼いたクレープでバニラアイスをくるんでおく。
「ヒトシー、アイスのフライ一つとゆずのムース一つと小倉アイス二つー」
 そらきた。
「ヒトシー、フルーツの春巻き二つとバナナのてんぷら三つと抹茶アイス二つと……」
「ヒトシー……」
「ヒトシー……」
 あっという間にオーダーを書いたカードが目の前に並んでいく。アイスクリームのお皿を赤いソースで飾り、ムースにミントを添えて、揚げあがったバナナにシナモンをふって、古いコーヒー豆をゴミ箱のふちでがんがん叩いて落とし、新しいコーヒー豆を挽く。
「ヒトシ、このコーヒー、泡だってないよ。うすいんじゃないか?」
「ヒトシ、この抹茶アイスどこのだ? おれんとこのは小倉アイスだぞ」
 リカルド、全然大丈夫じゃないよ。ほんとにクビにならないの?
 まかないを食べてそうじを大体すませる。調理場に残っているのは僕と洗い場の二人だけだ。
「どう? デザートは終わった?」
 ウェイターにお客さんの状況を聞いてタバコをふかす。
「あと、テーブル二つほど残っているよ」

 午後一時過ぎ、平日のこの時間地下鉄はもう動いていない。お客さんがひいてようやくご飯を食べ始めたウェイターたちにあいさつをしてお店を出る。
 夜の遅いスペインでは、まだいたるところに開いているバルで、お酒を飲んだり話をしたりしている人たちがいる。若者の集団とすれ違いながら大通りの交差点を渡る。歩道に沿って続いている街灯が石造りの古い街をやわらかく照らし、一ブロックむこうの信号でこちらへ向かって並んだヘッドライトが、夜のアスファルトへ反射してオレンジ色に輝いている。ランブラス通りは昼間同様外国人が多く、酔っ払った白人観光客たちの間をビールを売る外国人労働者のおじさんが呼び声をかける。まばらになった人ごみは、遊歩道に落ちたタバコの吸殻や無数に続く黒いガムのしみを目立たせた。

 部屋に帰ると午前二時、疲れた体でベッドに横になるが、ついさっきまで走り回っていたせいで気持ちが高ぶって眠れない。明日の朝はまた九時半から授業が始まるが、復習はもちろん宿題も何もやっていない。
「こんな状態で学校に行っても授業についていけないし、あまり意味がないだろうな」
 体がくたびれているせいか、もうすでにくじけそうになっている。意味があるも何も、行かなきゃ話にならない。
 とにかく寝よう。僕は大きく深呼吸をして目をつむった。

2003年7月24日(木)

 先日いつものようにデザートの仕込みをしていると、ホルヘと話をしていた料理人のフェルナンドに両手でジェスチャーしながらしゃがめと言われる。意味がよくわからないままその場にしゃがむと、今度は中国人の料理人たちに走れとせかされる。中華なべを持ったリーに促されるままに調理場の中を中腰で横切り、三メートル四方ほどの広さの冷蔵庫の中に飛び込む。
「ポリシア(警察)だ。ちょっとかくれてろ」
 リーはそういうと外から冷蔵室の扉を閉めた。扉は中からも開けることができるが、外の様子は全くわからない。どうしたんだろう、警察って。最初のうちは汗で濡れた体に冷気が気持ちいいが、どんどん寒くなってくる。冷蔵庫の中でふるえながら僕は、外国人不法労働者の取り締まりが来たんだろうということに気がついた。
「まったく何やってんだ、おれ」
 野菜やソースやサラダや生卵に囲まれて僕は力のない苦笑いをした。
 スペインではアルバイトというカテゴリーはなく、労働者全員が雇い主と労働契約を交わして社会保険や税金を納めなければならず、学生でも外国人でもそれは変わらない。学生ビザをもっていると週二十時間まで働くことはできるが、そのための手続きをまだ何もしていない。おそらく見つかると問題になるんだろう。

 その翌日グラン・ビア通り沿いのインターネットカフェに入り、メールの確認などをしてから外に出ると、ワイヤーで街路樹に固定していたはずの自転車が跡形もなくなっている。普段は道端に止めたりしないけど、午後の明るい大通りで多少油断していた。U字ロックを持っていないので直径二センチほどのワイヤーで鍵をかけて、三十分だけだから大丈夫だろうと思ったのが間違いだった。警察署に行って盗難届けを出したけどおそらく戻ってはこないだろう。
 これで僕は休日を一緒に過ごしていた唯一の友人を失った。

 昨日の夜、仕事が終わってからスペイン人のウェイターに誘われてリカルドたちと遊びに出かけた。ディスコテカ(ディスコ)に行くが踊れない僕は一人でビールを飲みながらぼんやりと周りの人たちを眺める。
 朝方になって彼らと別れ、うっすらと明るくなりつつあるバルセロネータ(海のそばの地区)をピソへと向かう。浜辺では海を見たりテントを張ったりしている人たちが意外とたくさんいて、僕も砂浜の端のコンクリートの段差に腰掛けてまだ暗い海を眺める。曇った空に星はなく、水平線では黒とグレーと紺色でいくつもの層に雲がグラデーションしている。
 仕事を始めてから勉強に時間がとれず、スペイン語の上達はぴたりととまった。引き換えに手にした仕事では毎日アイスのフライに追いまわされている。勉強と仕事の両立が大変なのはもちろん最初からわかっていたはずだし、無理なら仕事はやめればいい。でもずっと海外で暮らしていくのであればいずれは通る道だと思っていた。あと一週間でカタオカは夏休みになるから、ゆっくりと休んでこれからのことを考えよう。
 いつの間にか眠り込んでいたみたいだ。海の上のピンクと水色と薄紫のパステルカラーに変わった雲の向こう側に朝日が昇っているのがわかる。起き上がってズボンの砂をはらおうとして、ポケットに財布がないことに気づいた。しまった、やられた。くたびれはてた心と体に怒りや悔しさはわいてこず、またもう一つ大きなため息をついた。
 部屋に戻ってシャワーを浴びると契約のための書類を持ってカタオカに出勤する。不法労働者の検査があってから、あわてて書類上の契約を進めることになった。
 そして仕事のあと、その足で郵便局へ荷物を受け取りに行く。日本を発つ直前に船便で送ったその段ボール箱の中には、衣類や本など身のまわりのものがつまっている。ピソの一階にあるわかりづらい郵便受けをこまめにチェックして、先月通知を見つけてから何度か郵便局には来ているが、なかなか荷物は受け取れない。
 大きな郵便局の窓口で僕は通知を見せて荷物を受け取りたいと説明する。今日のおばさんは探しもせずにないと言う。
「なんで?」
「来るのが遅すぎだ。ここにはもうないし、どこにあるのかは調べようがない」
「ふざけんなよ」
 思わず日本語で言う。通知を受け取ってからここへ来るのはこれで四回目で、先月だって来ていた。なんで遅すぎなんだ? 面倒くさそうにおばさんは言う。
「ないものはない。たぶん送り主のところに帰ったんじゃないか。とにかくここにはない」
 船で日本に戻っているとして実家に着くのが秋、もう一度送りなおしてもらったとしてスペインに届くのが年末。困る。

 寝不足でふらふらしながら郵便局を出てピソへ帰る。ゴティック地区(旧市街)の薄暗い路地を歩いていると自転車に乗った若者がすれ違いざまに「チーノ(中国人)!」と言い捨てて、僕の足元に向かってつばをはき捨てていく。
 よくあることだ。チーノは中国人という意味だけど東アジア人全般をさすこともあって、もちろん言葉自体に軽蔑の意味は含まれていないが明らかに差別的なニュアンスをこめて使われることもある。気にしないように努力するがやっぱり腹が立つ。やり場のない苛立ちが少しずつたまっていく。

 ピソに戻ってベッドに横になるがもうすぐ夜の出勤時間だ。部屋の反対側にはつい最近までユンロンが使っていたベッドと勉強机が空っぽのまま残されていて、僕の机の上には手をつけていない授業のプリントと、タバコの吸殻でいっぱいになった空き缶が無造作に置かれている。
 三十分だけでも眠れるかな。僕は目覚まし時計をセットして目を閉じる。

 ただでさえ小さな僕の心は少しずつすり減って、三か月前日本を出てくるときに考えていたことやイメージしていたことはもうまったく思い出せない。
 僕はこんなところでいったい何をしているんだろう?

2003年8月2日(土)

 今日でカタオカは約三週間の夏休みに入る。
 観光客が集まる場所を除くと、ほとんどの会社やお店もそれぐらいの期間は夏休みになり、銀行やスーパーなどは開いているが普段よりも働いている人が少なかったり営業時間が短かったりする。従業員たちはたぶん交代で夏休みをとっているんだろう。

 夏休みの間に掃除の業者が来るらしく、夜の営業が終わるとみんなで調理場の荷物を全て客席に運び出す。お米などの食材やフライパンなどの調理器具や全てのお皿を、ぞろぞろとありみたいに行ったり来たりして運ぶ。
 終わると午前三時すぎ、一か月分の給料を受け取ってお店を出る。月曜から土曜まで一日約八時間働いて七八〇ユーロ。この間、勉強は全然できなかったが自分なりに何とかよくがんばった。はっきりとした約束をしたわけじゃないが、話ではこの夏休みのあと、仕事時間は昼か夜の半日だけになり、学生ビザでの契約をしてもらえるらしい。そうすれば学校にもきちんと通えて勉強する時間も持てる。

 部屋に帰るともう午前四時、一人で住むには少し広いユンロンのいない二人部屋で缶ビールを開ける。ピソの中のほかの部屋はすっかり寝静まっていて、普段は騒々しい外の通りもさすがにもう人通りが少ない。時たま足早に通り過ぎる足音と、ひそひそとした話し声が暗い路地に反響する。
 とにかく寝よう。明日のことは明日考えよう。

2003年8月14日(木)

 今日は元クラスメートのジナと役所に書類を提出しに行ってきた。
 僕たちが申請しているのはタルヘータ・デ・エストゥディアンテ、直訳すると学生のカード。外国人留学生として滞在するための居住許可証で身分証明書にもなる。
 入国してから三か月以内に、現在住んでいるアパートの証明書や語学学校の在学証明書や旅行保険、それに日本で仮の学生ビザを取ってきたパスポートなどの必要書類を提出してこのカードを発行してもらうわけだけど、それぞれの書類にいろいろな条件があり、またそれは申請する都市によって違うこともあるらしい。
 日本で僕がスペイン大使館に学生ビザを申請したのが去年の年末のクリスマス直前。十二月初旬からビザ発行に必要な学校の条件が変わり、あわてて入学手続きをやりなおして書類を提出した。あわてていたのは、年が明けて一月になるとまた提出する書類の内容が変わるといわれていたからだ。このときに書類を集めるだけでも、病院で血をとられたり警察庁で指紋をとられたり時間をかけているのに、また変更なんてことになったらいつ日本を出発できるかわからない。
 日本のスペイン大使館だけでなく、もちろんスペイン国内でも移民に対する滞在許可証の発行はここ数年で厳しくなり、毎年というより毎月ごとに状況が変わり続けている。これが労働許可になるとさらに難しく、いろんなうわさも飛び交い手続きのプロセスは実質運しだいのようだ。でも、たぶん不可能なわけじゃないだろう。
 ヨーロッパの人たちは、EU加盟国内であればどこにでも住めるのでこんな手続きは必要ない。その他の外国人も実際に道端で突然身分証明書の提出を求められることはないので、短期間ならビザなんかなくても別に問題はないんだろうけど、病院に行ったり仕事を探したり生活するうえでいずれ必ず必要になる。いや、不法滞在はもちろん問題だけど。

 役所の前で待ち合わせをしたジナは二十代後半の韓国人。スペイン語を勉強したあとバルセロナの大学で建築の勉強をしたいらしい。スペインに来たのは僕と同時期だけど、ものおじせずによくしゃべる性格もあってスペイン語をおぼえるのもすごくはやい。
 僕が事務所についたとき彼女はもう書類の提出を終えていて、僕も少しロビーで待った後指紋をとるなどの手続きをすませた。あとはタルヘータができるのを一か月と少し待つだけだ。
 労働許可など移民の受付をしている警察署の前はいつも何十メートルも行列ができていて、前の日の夜中からたくさんの外国人が並んでいるが、学生ビザのほうはそれほどでもなくきちんと予約を入れてその時間にいけば待ち時間はせいぜい一、二時間くらいだ。そう、それでも一、二時間。
 学生であれなんであれ外国人として暮らすということは移民になるということで、許可をもらわなければ生活してはいけないということになっているし、仕事をすることもできない。しかしインターネットで世界中の情報が手に入り、交通はどんどん発達し続けている現在、単に法律を厳しくするだけじゃ人の流れを止めることはできないだろう。

 僕らはスペインの国旗が掲げられた建物を出て、バル(カフェ)でコーヒーを飲んだあと、ジナのピソでご飯を食べることになった。夏休みのためほとんどの商店は店を閉めていて、静かな通りをのんびり歩く。
「このあたりは住むのによさそうだね。街の中心にも近いし」
「今、このグラシア地区はフィエスタ(お祭り)だからね。明日にはにぎやかになるらしいよ」
 食材を買うために歩きながらスーパーを探すがどこも閉まっていて、開いている店はなかなか見つからない。
「それよりヒトシ、全然学校来てないけどどうしたの。アルバイト忙しいんじゃない? 前よりやせたよ」
 彼女は顔をあわすたびに僕に聞く。たしかにその通りだな、学校は週のうち半分ぐらいしか行っていない。それでも一時のことを考えるとまだましだ。
「お店は夏休みで今は働いていないよ。勉強だとかバイトだとかで疲れてたんだ。最近はだいぶんいいよ」
 簡単に買い物をすませてから、アルゼンチン人たちとシェアしているというピソにおじゃまする。玄関を入るとすぐに廊下で、左右に六部屋ほどの寝室とバスルームやキッチンが並ぶ。リビングがないから狭く感じるけど、フィエスタ(ホームパーティー)ができないから勉強するには静かでいいらしい。こじんまりとしたキッチンは風通しもよく、以前ここに住んでいた画家が貼ったというタイルで壁が飾られてある。

 ジナは基本的に料理ができないらしいが、もんじゃ焼きみたいになったチヂミと、野菜といっしょに煮たスイトンみたいなのをつくってくれた。調味料は塩だけしか使っていないようだが、味はともかく気持ちがうれしい。
 二人で食べているところに彼女のルームメイトのアルゼンチン人たちが現れてジナと話をはじめる。さすがネイティブのスペイン語は早くてうまく聞き取れない。ジナはやっぱりきちんと勉強してるんだろう、多少食い違っているところはあるみたいだけどちゃんと会話についていっている。横で聞いている僕は初対面で話の流れを知らないということもあるが、ほとんどわからない。
 彼女は自分がつくった料理を何度も彼らに勧めているが、断られているようだ。うん、そこはわかった。

2003年8月15日(金)

 ディアゴナル通りを歩きながら、今日の夕方約束をしていたジナの携帯に電話をかける。
 僕が今いる大きな交差点からグラシア通りへ向かって、仮設のメリーゴーランドなど子供たちの乗り物がすえつけられ、小さな遊園地みたいになってる。
「えー? うるさくってよく聞こえないよ。今どこ? グラン・ダ・グラシア?」
 彼女がいる場所も相当にぎやかなようで、どなるように今いる場所を説明している。周りの人にぶつからないように歩きながら、僕も携帯電話に大声をあげる。
「じゃあ、今からそっちに行くよ。何番地?」
 屋台の並ぶ通りの人ごみの奥で、激しく鳴り続ける爆竹や太鼓の音が聞こえる。待ち合わせ場所もそっちの方向だ。
 歩いていくと、悪魔みたいなデザインの民族衣装を着た若者たちが棒の先につけた花火をぐるぐると振り回しながら、行列をつくって通りを練り歩いている。たぶん一〇〇メートル以上は続いているだろう、どこまで行っても途切れることがない。僕はガウディのオオトカゲのハリボテを足早に追い越した。パレードはみんな悪魔の衣装を着ていて、大人たちは保護めがねをつけてぐるぐる回る火花をあびる。子供たちは太鼓を叩き、小さな楽団をつくって行進していく。

 ジナは韓国人の友達三人といっしょに、けたたましい騒音と火花をさけて歩道のすみでかたまっている。雑踏の中から僕の姿を見つけると、花火の音に悲鳴を上げながらあいさつした。
「花火の音がすごいね。カメラ持ってくればよかったな」
「うるさすぎるよ。きゃー」
 何時間も前からこの辺りにいた彼女たちは爆発音と人ごみでかなり疲れているらしく、僕たちは歩きながら休む場所を探すことにする。一人は約束があるからといって途中で別れたが、残りの四人で缶ビールを買って、一人の韓国人の住んでいるピソに入った。

 かたかたと音をたてて回る扇風機の音を聞きながらビールを飲んで、出してくれたサラダをつまむ。片付けられた広い部屋の壁には何枚かの写真がはってあり、こっちに向かって笑ったアジア人の女の子たちが写っている。
 基本的に無口な僕を尻目に、三人の韓国人たちはよくしゃべる。スペイン人たちと日本人や韓国人との間にある日常生活に対する感覚の違いについて、スペインにやってきた理由と実際に暮らしてみた感想について。彼女たちは僕の知らない第三者の恋愛の噂話までスペイン語でどんどんしゃべる。いやいいよ、そこは韓国語で。
 韓国人の内の一人はこれまで二年間ロンドンに留学していて、街は大きくて便利だが、イギリス人の国民気質みたいなものにあまりなじまなかったらしい。対照的に、明るくて開放的なスペインの人や気候や文化に興味を持って、バルセロナにスペイン語を勉強しに来た。

 訪れた街や国に対してどんな印象を持つかは、そこでどんな人たちと出会いどんな経験をするかによる。たとえば治安や国民性や住みやすさ、ほんの小さな出会いですべてが変わり、小さなアクシデントでまたひっくり返る。滞在期間が短ければなおさらだ。誰もが限られた時間の中で、たくさんのことを試したり、あきらめたり、選んだりしてすごしている。
 毎日勉強していても、勉強してよかったって毎日思ったりはしない。何年間も働きながらも、この仕事について本当によかったってたえず思えるわけじゃない。何十年間生きていても、この世に生まれて自分は幸せだって毎日心のそこから実感したりなんかはしない。
 でも、ほんの一瞬でもそう思えるときがあるのなら、僕たちはその瞬間のために毎日を生きているんだろう。

 夜遅くにピソの外へ出るとお祭り騒ぎはピークを過ぎていたが、小さなライブがあちこちの路地の中のステージでやっていて、道いっぱいにたくさんの人たちが踊ったりお酒を飲んだりしていた。十二時近いのに小さな子供たちも遊んでいる。
 にぎやかな話し声と笑い声と音楽を聴きながら、僕は歩いてメトロ(地下鉄)の駅へ向かった。

2003年8月24日(日)

 三週間の夏休みは今日で終わり、明日からまた仕事が始まる。今度は夜だけなので、昼間の時間は勉強に使える。
 語学学校の授業はあと二か月、バイトしながらなんとかがんばって、十一月になったらたまったお金で旅にでも出てみようか。僕はまだヨーロッパではバルセロナしか知らない。もしかしたらもっと気に入る街がスペインのどこかで見つかるかもしれない。
 僕がスペイン語の勉強を始めてから、四か月しかたっていない。いっそのこと今から別の国で別の言葉をおぼえるのもいいか。最近はそんなことを考えたりもしている。
 仕事や勉強で落ち込んでいたころと比べて、気持ちも体も回復はしたけど、この四か月間バルセロナで暮らしてきてスペインに来てよかったって心のそこから思えた瞬間をうまく思い出せない。いろんな場所を見ていろんな人と会って、あらためてこの街を好きになれるんならそれでもいいし、ほかに気に入ったところが見つかるならそれでもいい。少し一人になってもう一度考えたい。

 仕事が始まるとまた以前のように休みが日曜日だけになるので、おとといの金曜日はリカルドとバルに行ってきた。昨日はチャオのピソに顔を出して、今日はユンロンのピソに遊びに行く。
 リカルドは七月いっぱいでカタオカの仕事をやめている。そのあとフランスに一週間ほど行っていて、バルセロナに帰ってきてからも何度か会っている。
 同性愛者でドイツ語も堪能な彼は前回会ったとき、「いま付き合っている彼と一緒にドイツに住むかも」って言っていたけど、今回話をしたらバルセロナで仕事を探して当分はこっちで住むらしい。会うたびに言うことが変わっているけど安心した。僕もずっとバルセロナにいるかどうかはわからないけど、数少ない友人がいなくなるのはさみしい。
 リカルドは僕が早くスペイン語をおぼえられるようにといろいろ気を配ってくれて、またいつか一緒に仕事をしようと言ってくれる。たとえうそでもうれしい。

 チャオと会うのは一か月ぶりくらいだ。一時は僕とユンロンの部屋に居候していたけど、今は中国人の友人たち五人くらいで街の中心地にピソを借りて住んでいる。大学がはじまるのはまだ先で、今はアルバイトをして学費や生活費のためにお金をためている。途中のスーパーマーケットで買ってきたビールはまだぬるいけど、僕たちは再会の乾杯をした。
「どうヒトシ、仕事は今も忙しい?」
 みんな会うたびに僕に聞くけど、そんなにやせたのかな? 彼が僕にこの質問をするのも、もう三回目くらいだ。
「今は夏休みだよ、次は月曜日から。でも夜だけだから勉強もできるよ」
「うん、そのほうがいいよ」
 リビングには大きなテレビが置いてあり、窓の外で絶えず通り過ぎる自動車やバイクのエンジン音が涼しい風と一緒に流れ込んでくる。
 少ししてからチャオの同居人の中国人が、語学学校のクラスメートの日本人をつれて帰ってきた。彼らは僕が通っているところとは別の学校でスペイン語の勉強をしている。
 僕たちはオリーブの実をつまみながら夜遅くまで話をした。窓の外の大通りを走る車の音はいつの間にかまばらになっていた。

 普段あまり乗らない地下鉄の二番線で三十分くらいのところに、ユンロンとヤンは一緒に住んでいた。いつからかは知らないが、彼ら二人は付き合っているようだ。
 そこは中国人たちがたくさん住んでいる地区から近くて、彼らには便利な場所らしい。やっぱり中国人五、六人といっしょに生活しているが、学生どうしでシェアしているチャオのピソと違って、みんな働いているんだろう、年配の人が多くスペイン語もあまり話せないみたいだ。
 三人でビールを飲みながら、ヤンがつくってくれた手料理を食べる。次々とつがれるビールを空けながら、エスパーニャ広場の噴水や、ビラノーバの海にみんなで行った思い出話をした。
 彼は先月で半年間の語学学校を終えて、次は二月からバルセロナ大学にある外国人向けのスペイン語コースをうける予定らしい。今はそのためにアルバイトしている。
「いい仕事を見つけたらヒトシにも教えるよ。お互いにがんばろうな」
「ああ、ありがとう。でもまずスペイン語おぼえなきゃ」
 語学学校で知り合うヨーロッパの人たちはたいてい数週間から数か月で帰っていく。アジア人などそれ以外の国籍の人たちは、お金や距離や学生ビザの手続きなど障害が大きい分、短くて半年から一年、またはそれ以上の期間滞在していく。
 でも僕みたいに帰る予定は別にないっていう人は少なくて、中国人たちくらいかもしれない。彼らは中国人コミュニティーの中で生活していて、スペイン語なしでも生きていくことが可能だ。
「ほかに日本人がたくさんいる都市はないのか? そこならヒトシもすぐ仕事が見つかるし生活もしやすいはずだよ」
「ヨーロッパで? フランスやイギリスやドイツなんかはスペインより多いかもしれないけど。でも、いいよ別に。日本人だけで生活したいんなら日本に帰ればいいし」
 ヤンがバルセロナに来たのも僕とほぼ同じ時期で、スペイン語をおぼえたらバルセロナに住んでいるたくさんの中国人たちにスペイン語を教えたいらしい。僕やユンロンと違ってきちんと学校に通ってまじめに勉強している。
 彼女が僕に聞く。
「日本には帰らないの? 日本は好きじゃない?」
「まさか、日本は好きだよ。でも、もっといろんなことを試してみたいんだ」
 小エビの炒め物を箸でつまみながら僕は答えた。
「もうすぐ九月になるからさ。涼しくなる前にまたみんなで海に行こうよ」
「うん、いいね。仕事は日曜が休み?」
 上半身裸の中国人のおじさんがテレビでサッカーの試合を見ながらビールを飲んで、横にいるもう一人の中国人と話をしている。ユンロンは新しく冷蔵庫から出してきたエストレジャ(スペインのビール)のプルタブを引きながら言った。
 「で、どう。仕事は今も忙しい?」
 だから今は働いてないんだって。ユンロンに聞かれるのも三回目くらいだ。

2003年8月28日(木)

 月曜日から夜だけ仕事再開。
 恰幅のいいスペイン人の二十代の女の人が新しく入って、僕と一緒にデザートの仕込みや盛り付けをやっている。夏休みが終わってまだ一週間もたっていないからそれほどお客さんは入っていないけど、たぶんまたすぐ忙しくなるだろう。
 今日は仕事が終わってからホルヘのところに呼び出された。今回は何の話だろう。
 前回、不法労働者の取締りがあってからあわてて正式に契約することになったが、僕はまだタルヘータ(IDカード)を持っていない。そこで、きちんと許可がおりて契約を結ぶまで仕事を休んでほしいという話だ。学生のタルヘータができるのが九月の後半、それからお店に書類を持っていって手続きが終わるのはさらに数か月先だろう。
 学生ビザでも週二十時間で一日四時間までの半日は仕事ができる。僕がこれから取ろうとしているのはその半日分の許可で、これと労働契約があれば立ち入り検査があっても問題にならない。
「当分生活するお金は大丈夫か?」
「はい、一応何とかなります」

 そんなわけで今週いっぱいで仕事を休むことになった。夏休みが終わって四日しかたっていないが、あと二日で再び夏休み生活に戻る。もちろん語学学校の授業はずっとあるけど。
 そしてこれは僕にとっても悪い話じゃない。半日契約でもまたどこかで役に立つかもしれないし、正直今はお金より時間がほしい。勉強したり遊んだりして、この街のことをもっと好きになりたい。

2003年9月6日(土)

 チャオのピソで先々週知り合った日本人のユリさんと飲みにいく。
 バルのテラスでカバ(カタルーニャの発泡ワイン)を飲みパン・コン・トマテ(トマトを塗ったバゲット)をつまむ。大通りから少し入った角にあるその店は、通りに人通りがあまりないにもかかわらずたくさんの人でにぎわっていた。
 毎日スペイン語の勉強ばかりで少し気分転換をしたいと思っていた僕は、はじめて会った彼女に日本語の文庫本とCDを借してもらった。本は心理学者の書いたエッセイ、CDはダブレゲエをベースにしたポップスバンド。海外で暮らすために選んでくる限られた荷物はどれもその人にとって大切なものなのだろう。僕はその本を読み音楽を聴いて、物静かな彼女に興味を持つようになった。
「部屋探ししてたの、見つかってよかったね」
「うん、ありがとう」
 彼女が今住んでいるホームステイ先は学校に紹介されたもので家賃が高いらしく、もう少し安い部屋を探していたところ、リカルドに教えてもらったピソを紹介したら先日そこに引っ越すことに決まった。
「このあと、すぐそばでリカルドたちと待ち合わせしてるけどどうしようか?」
「ほんとに? わたしも十二時ごろに友達と約束してる。みんなで一緒に飲もうか」
 冷たいカバの注がれたグラスは、明るいバルの照明の下で汗をかいて、ビニールの上着を着たボトルと並んで立っている。九月にはいって急に涼しくなった夜の空気の中で、切りたてのチーズもお皿の上でゆっくりと細かい汗をにじませる。
 長い髪を三つ編みにしたユリさんは小さな声で一言一言ゆっくりと話をする。スペインに来てまだ数か月の僕たちは、ついこの前まで生活していた日本のことやこれから続くスペインでの生活のことなど、とりとめなく話をした。彼女はスペイン語をおぼえたあと、バルセロナで造形の勉強をしたいと考えているらしい。

 十二時ごろリカルドがやってきた。
「あれ、僕らの待ち合わせ場所ってこの店だったの? もう一本むこうの通りだと思ってたよ」
「いや、ここだよ。ワタナベさんももうすぐ来るよ」
 ユリさんの友達のエイコさんも合流する。年齢はユリさんより少し上で三十歳くらい、別の日本人オーナーの日本食レストランで、今月だけの臨時アルバイトをしている。
 一時前になってお店の仕事を終えたワタナベさんが到着する。僕がデザートをやっていたころリカルドとサラダ場をやっていて、今はカウンターで寿司を握っている。もう四十代後半くらいの寿司職人だ。
 あらためてみんなで乾杯して、閉店間際のバルで自己紹介や再会のあいさつを交わす。
「そうそうリカルド、こないだ言ってた船舶会社の仕事ってうまくいきそう?」
「あー、あれね。やめた」
「え?」
 バルセロナで仕事を探していた彼は、船舶会社で就職が決まったって先週うれしそうに言っていたばかりだ。
「なんで?」
「別の仕事が見つかったんだ。マルベージャで」
「どこ、それ? 何の仕事?」
 ワタナベさんが大きなビールのジョッキをかかげて得意げに説明する。
「お前知らないのか、マルベージャ。いいところだぞ。ヨーロッパ中の金持ちが集まるところだ。そこでアラブの大金持ちが日本食レストランを開くらしいんだよ」
「何? ワタナベさんまで」
「何って何だ、おれもいくんだよ」
「まじですか?」
 血の入った黒い腸詰のモルシージャをフォークで切りながらリカルドが付け足す。
「今年の秋にオープンするらしいんだ。カンさんが今むこうで準備してるよ」
「カンさんって韓国人の? カンさんが向こうにいてワタナベさんもやめたら、カタオカは寿司やる人いなくなっちゃうよ」
 エイコさんは話を聞きながら小さく切ったモルシージャをフォークでさして口に運び、ワタナベさんはジョッキに残ったビールを飲みほして言う。
「いいよ、そんなの。てゆうかお前も入ってんだからな、メンバーに」
「まじですか?」

 閉店の時間がきたことを告げられ、僕たちはぞろぞろとバルを出て二軒目へ向かう。時間は遅いが土曜日の夜中の通りにはまだ人がちらほらいて、夜道に話し声が響く。僕たちはまだ誰も行ったことのないマルベージャの街について、そしてそこにできるというお店について話をしながらゆらゆらと歩いた。
「ユリちゃんも行くでしょ? マルベージャ」
「え?」
 え? ワタナベさん、ユリさんと初対面じゃないですか。誰でもいいの?

2003年9月11日(木

 僕とユリさんとエイコさんはサンツ駅で待ち合わせをして、シッチェス方面行きの電車に飛び乗った。
 いつか海に行こうって話を前からしていて、できればバルセロナの北東のコスタ・ブラバに足をのばしたかったんだけど、待ち合わせ時間も朝早くなかったし、エイコさんは夜にバイトがあるし、何より天気予報では雨だった。シッチェスなら天気が悪くて泳げなくても、バルセロナから近いからすぐに帰ってきてもいいし、街をのんびりうろついてもいい。
 休日の電車の中はわりあい混み合っていて、僕らはドアのそばに立って窓の外に流れる明るい景色を眺めた。
「晴れてよかったね」
「うん、曇るとすぐに寒くなるから、海に行くの今年の夏これで最後かも」

 ここ一週間くらいで少し気温が下がったけど、日がさすと十分に暑い太陽の下、幅の狭い砂浜で僕たち海水浴客はまるで何かの商品みたいにぎっしりと並んで横になった。
 当たり前のことだけど、青い空には白い雲が浮かび、太陽の光はあたりのすべてを照らし、たくさんの幸福な出来事とそうでない出来事とに満ちあふれて日々は過ぎていく。そんな当たり前のことを幸せに感じることのできる幸せと、一人で生きていくことの難しさをいまさらのようにぼんやりと考えた。
「ヒトシくんはどうするの? マルベージャの話」
 砂浜に広げた大きなタオルに寝そべって、はきはきとしたエイコさんが僕に聞く。
「うん、行こうと思ってるよ。おもしろそうだと思うし、バルセロナにこだわる理由もないからね。リカルドがお店を見に行くから帰ってきたら話を聞いて、それ次第かな」
 彼女もユリさんと同じ語学学校で数か月前からスペイン語を勉強していて、今後バルセロナで就職したいと考えている。日本では貿易関係の仕事をしていて、イギリスに留学していたこともあり英語も話せる。
 ずっと砂の上にいると汗がにじむほど暑いけど、一度水に入って濡れた体には少し肌寒い。太陽の日差しで体を乾かして、ゆっくりとあたためたのどにビールを飲む。

 夕方三人でご飯を食べてから、エイコさんはバイトがあるのでバルセロナへ帰るために駅へと向かい、僕とユリさんは日が傾くまでのんびりと街を歩いて、小さな広場に面したバルでジントニックを飲みながら夕日を眺めた。
 公園では小さな子供たちが走り回り、お母さんたちはベンチに座ってそれを見守っている。首輪をつけた犬が、夕暮れに影の伸びた街路樹の太い幹のにおいをかいだあと、少し首をかしげてなかなか見つからない落し物でも探しているみたいに、入り組んだ路地の向こうへ、とぼとぼと歩いていった。

 再び海岸に戻ってきたころにはもうすっかり日が暮れていて、僕たちは砂浜から海へ向かってのびた防波堤の先まで歩き、ゆらゆらと水面に長い長い尻尾を伸ばした生まれたての真っ赤な満月を眺めた。後ろの海岸線には町の明かりが一列に続き、遠くから教会の鐘の音が聞こえる。
 朱色のしずくが海の上に滴り落ちそうなくらいに大きくて赤い月は、少しずつ少しずつ東の空に浮上していくにつれて、少し黄色がかった銀色に輝く普通の満月に変わっていった。ついさっきまでこの月は日本の夜空を照らしていたんだろう。
 僕はこれから日本には帰らず海外で生きていこうと思っている。それは今思いついたことじゃなく、二十代の前半からいろんな国を見たり、いろんな人と出会ったりしながら考えてきたことで、こうしてスペインにいてもその気持ちに変わりはない。簡単なことではないだろうが、ユリさんとなら乗り越えていけるんじゃないかと思った。朝から言おうと決めていたそんな話を少しずつ彼女にする。
 話をしながら心臓の音がどんどん大きくなっていき、こめかみの鼓動が耳の中で響いて自分がしゃべっている言葉の邪魔をする。
「まだ決まったわけじゃないけど、僕と一緒にマルベージャに行ってくれないか?」
「うん、いいよ」
 少しうつむいてユリさんは答える。
「もしかすると、僕と一緒にいるとすごく苦労をするかもしれないよ」
「うん、別にいいよ」
 この日から、僕たち二人は一緒に生きていくことになった。
 波の上に反射した大きな満月の明かりは水平線の向こうからまっすぐに僕たちの足元まで届いてちゃぷちゃぷとゆれた。それはまるでその上に降り立ってどこまでも歩いて行けそうに見えた。

2003年9月14日(日)

 午前十一時にユリさんがホームステイしているアパートの前で待ち合わせをして、リカルドが紹介してくれた部屋へ引っ越す手伝いをする。引越しといっても荷物はそうたくさんないので僕はスーツケースをころころと転がして、彼女は大きな紙袋を手に持って、バリアフリーなんて全くないメトロ(地下鉄)を乗り継いで、新しいピソのベルを鳴らした。
「ようこそ、我が家へ。はっはっは」
 陽気なリカルドが、日本語で言いながら顔をだす。
 そこはスペイン人女性が所有するピソで、今はその人とリカルドと二人で住んでいる。寝室が三つと小さなサロンとキッチンがあって、これからユリさんを含めて三人で暮らすことになる。スペインには日本のようなワンルームマンションはあまりなく、二十代や三十代の独身の人たちや学生は、三LDKや四LDKくらいのピソをシェアして、家賃や光熱費を出しあって生活するのが普通だ。
 ユリさんのこれから住む四畳半くらいの小さな部屋には、ソファーベッドや机や棚が置いてあり家賃は二五〇ユーロ。
 ちなみに僕が住んでいるピソは、二人部屋だけど語学学校で契約しているものなので普通の部屋より値段が高く、この部屋の二倍近くもする。僕ももっと安いところに移りたいけど契約期間中はキャンセルできないらしい。

 簡単に荷物の整理をしてから、三人で引越しそばを食べるとすぐに、リカルドは小さなかばんだけを持ってマルベージャに行くため空港へ出発した。向こうでの仕事の話がうまくまとまるようなら、彼はバルセロナから荷物を引き払って出て行ってしまう。
「お気をつけて。こっちに帰ってきたら連絡してくださいね」
「うん、ありがとう。じゃ、行ってくるよ」
 
 彼を見送ったあと、グラシア地区のはずれにあるそのピソからグエル公園まで、僕たちは散歩に出かけた。
 観光客でにぎわう広場を歩いて丘の上まであがり、白くかすんだバルセロナの街を見下ろして、うろこ雲の広がる高い秋の空を見上げた。早ければ十月、遅くても十一月、もしかするとこの街を出て行くかもしれない。僕はユリさんの手をとって、ぎっしりと細かく並ぶ古い建物の上をらせん状に渦を描きながら飛んでゆく鳩の群れを目で追いながら、この街で出会ったたくさんの人たちのことを思い、バルセロナとは全然関係がないところでこの街を好きになりつつある自分に気がついた。

 夜、ランブラス通りから西に入ったところにある、パキスタン人やアラブ人がたくさん住んでいるラバル地区にご飯を食べに行った。スペイン語と並んでアラブ語で看板が書かれた商店が立ち並び、店をのぞくと店員もお客さんもほとんどがイスラム圏の人たちだ。バルやロクトリオ(インターネットなどが使えるお店)やレンタルビデオ屋、もちろん全部アラブ語。散髪屋と肉屋がなぜかたくさんあり、散髪屋をのぞくとみんなひげをたくわえていて、肉屋にはたぶん豚肉は置いてないんだろう。
 この近辺では日曜日だというのにいろんなお店が開いている。普通スペインでは、スーパーやデパートにいたるまでほとんどの店が日曜日になると店を閉める。でも中国人やパキスタン人の商店は日曜日も開いているところが多い。
 ここからすぐそばの、僕が住んでいるゴティック地区にもパキスタン人が多くて、いつも行く商店のオーナーはよく僕に話しかけてくる。
「おまえは彼女がいるか?」
「いや、いないよ」
 当時はユリさんと出会う前だった。
「早く彼女を見つけたほうがいい。一人で生きていくのは大変だからな。おれたち外国人は特にだ」
 彼は九月に入ってカナダに一週間ほど旅行に行くと言ったきり姿を見ていない。店は改装されて別の人に渡ったようだ。
 僕たちは一軒の食堂に入ってカレーとサモサを注文した。
 日本人は絶対に来ないんだろう、みんなじろじろと無遠慮にこっちを見ている。外からも見えるショーウィンドウに飾られているのは小皿に入った何種類かの香辛料とロウソクとビー玉。横には大きな中国のつぼの模造品が置いてあって、壁にはどこだかわからない滝のポスターが額に入れてかけてある。安っぽいものを思いつくだけ全部集めてきたような店内は本当にインドに来たみたいだ。
「変わったものが食べたいとか、辛いものがいいって言うから来たけど、ほんとにいいの? こんな店で。今日誕生日なんだろ」
「いいよ、こういうの好きだから」
「まあ僕も好きなんだけど」
 香辛料の香りが漂う店の中には、糸を引くようなインドの映画音楽が流れていて、がたがたと動くテーブルで僕たちは安くておいしいカレーを食べてビールを飲んだ。

2003年9月27日(土)

 最近僕と同じ部屋に住み始めた中央アジア出身のムラートと、昨日の夜遅くまで酒を飲んだ。安いウォッカを一人ボトル一本ずつストレートで飲んで、ランブラス通りにある四つ星ホテルに忍び込んで、三階の廊下の隅のそうじ道具置き場に二人で立ち小便をして帰ってきた。最低だな。
 おかげで僕たちの薄暗い部屋には酒臭い空気がこもっていて、僕は今日も二日酔いだ。本当、最低だ。

 お昼ごろ、寝ている僕の枕もとで携帯電話がなった。ユリさんかな、頭痛がひどくてちょっとまだ動けそうにない。隣のベッドではムラートが小さなうなり声をだして寝返りをうつ。
「モシモシ、あたしリカちゃん。はっはっは」
 携帯電話ごしに、リカルドが大笑いしながら日本語で言っている。
「なんだよ、リカルドか。今、どこにいるの?」
「バルセロナだよ。今いるのはカタルーニャ広場のそば」
「マルベージャから帰ってきたんだ。今日会おうか」

 そして夜、リカルドとワタナベさんとユリさんと僕はいつものバルに集まって、今準備をしているというお店の話を聞いた。僕とワタナベさんはスペインの白くて丸っこいアーモンドを口に放り込みながらビールを飲んでリカルドの話を聞いた。
 オーナーがイスラム教の人なので豚肉とお酒は出さない。なのでとんかつも日本酒もない。店内の客席はほぼ全てが回転寿司のカウンターで、いすの模様は虎柄。調理場はショッピングセンター内の少し離れたところにあって、夜の九時半以降は鍵が閉められて入れなくなる。
 アンダルシア地方の地中海沿いに広がるコスタ・デル・ソル(太陽の海岸)、ゴルフ場やヨットハーバーがあるリゾート地でアラブ人が経営する高級回転寿司レストラン、なんだかよくわからないけどおもしろそう。高級な回転寿司ってどんなのだろう。
「ワタナベさんたちはともかく、僕も本当にそこで働けるの?」
「もちろん」
「労働許可は?」
「たぶん、取れるんじゃない?」
 たぶんか、まあ仕方がない。こればっかりは誰にもわからない。第一彼だって観光で入国してそのまま働いている不法滞在者だ。リカルドはもうすでに契約をすませてきたらしい。荷物を全てまとめて明日には長距離バスでマルベージャに戻る。
 そして、今日の話を聞いて早くどんなところか見てみたくなった僕は、一週間後にマルベージャに行くことに決めた。

2003年10月2日(木)

 僕が通っている語学学校はスペイン国内にいくつも支店があり、バルセロナのほかにもマドリーやグラナダなど別の都市に滞在場所を変更することが可能だ。期間の限られた学生たちの中には、数週間ごとに引っ越しながら授業を受ける人たちもいる。
 マルベージャにも教室があって、僕は手数料を払って残りの一か月間をそっちで暮らすことにした。

 一か月たったら一度バルセロナに帰って来るので、当分の生活に必要ないものは全てまとめて今日ユリさんの部屋にあずけに行った。そのあと、彼女と一緒に僕の部屋に戻って、ムラートと三人で酒を飲んだ。彼と飲むと絶対に荒れる。
 ユリさんはワインを飲んで、ムラートと僕は小さなショットグラスに入れたジュースをチェイサーに、普通のグラスに注いだウォッカを一気にあおる。誰が考えたんだ、こんな飲み方。これじゃ普通のイッキ飲みだ。
「ヒトシ、いつバルセロナを出発するんだ?」
 彼はまだスペイン語が話せない。英語が話せない僕に英語で話しかけてくるのは彼だけだ。
「今週末だよ。でも、一か月後には帰ってくる」
 スペイン語の辞書すら持たずにバルセロナにやってきたムラートは、着いた数日後から仕事を探し始め、今では全然学校に行っていない。僕も人のことは言えないけど、ほんと何しに来たんだ。いつもひどい飲み方をする彼は、「両親や祖国と離れてさみしいからなんだ」って言うけれど、それにしても度を越えている。
「お前はいいよ、日本人の友達や彼女がいて。日本食レストランや日本の会社がスペインにはたくさんあるから仕事だって見つけることができる。学校にもどこにも、バルセロナにはロシア人なんかいない」
 彼は中央アジア出身で見た目は僕たち東アジア人と変わらないモンゴロイドだけど、ロシア語もしゃべるし、もとソビエト連邦だから大きな意味ではロシア人なんだろう。彼の母国内だけでも何十もの民族が共存しているらしい。
 家族のいる故郷を離れてさみしいのはわかるけど、まあそういうなよ。
「わかったよ、飲もう」
 僕らはもう何杯目かわからなくなったウォッカをいっきに飲み干した。

2003年10月3日(金)

 あー、頭が痛い。
 ベッドのわきにおいてあるプラスチックのボトルのぬるい水をごくごく飲んで、ふらふらしながらトイレに行く。ドアを開けると、便器から大きくはみ出した嘔吐物が目と鼻に飛び込んできた。誰だ? おれ?
 部屋に戻ってユリさんに聞くと、夜中僕はトイレで寝ていたらしい。ほんと、最低だ。昨日は三人で、ウォッカ二本とワイン一本とベルモットが少しと、えーと、もう、どうでもいいや。寝よう。横のベッドではムラートが小さなうなり声を出して寝返りをうっている。

 昼過ぎに目を覚まし、トイレ掃除をしてからピソを出る。両替などの用事をいくつかすませたあと、地下鉄に乗ってユンロンと待ち合わせしている駅へといそいだ。マルベージャに行くことが決まってからこの四、五日は毎日飲んでいて毎日二日酔いで、今日はユンロンたちと晩ご飯を食べに行く。
 僕とユリさんとユンロンとヤンとその友達の中国人と、五人で中華料理屋に入った。このあたりは中国人とモロッコ人が多く、ここまでの道を歩いている間にもたくさんの中国人と頭から首にかけて黒い布を巻いたイスラム教徒の女の人を見かけた。店の中は僕とユリさんのほか、やっぱり中国人に連れられた白人が一人いるくらいで従業員もお客さんも全員が中国人だ。テレビでは中国の衛星放送がながれ、ほぼ満席の全てのテーブルでは中国語が飛び交っている。
「ヒトシ、何が食べたい? 今日はどんどん飲め」
「いや、昨日ウォッカ一本あけてまだ二日酔いで……」
「いや今日は飲まなきゃだめだ。バルセロナを出て行くんだろう」
「来月には一度帰ってくるよ」
 ユンロンに促されていやいやメニューを見ると、ビーノ・コン・ウエボっていうのが目にとまる。
「何これ? 卵入りのワインって?」
 誰も知らないらしい。なんで? 中国の飲み物じゃないの? 怖いけどちょっと見てみたい。どうしても飲めって言うんならこれ頼んでみよう。
 少ししてみんなの前にはビールが来て、二日酔いの僕の前には、スープのように溶き卵が浮いた五〇〇ミリリットルのあつあつの老酒がやってきた。こんなに飲めないよ。
 麻婆豆腐、北京ダック、水餃子、車えびの鉄板焼き、豆腐とピータンのスープ、ツブ貝、豚の耳の炒め物、アヒルの舌、アヒルの足、エノキ炒め、米のひらたい麺の炒め物。確かにうまい。そして安い。中国人で満席になるのもわかる。でも今日は無理だ。悲鳴を上げる胃袋を押さえつけるように少しずつ老酒をながしこむ。
「ヒトシさん、おでこに変な汗かいてるよ」
 ユリさんは横でチンタオビールを飲みながら小さな声で言う。
「ヒトシ、どんどん食べてくれ」
 ビールのグラスを片手にユンロンは言う。ああ、ありがとう。わかったよ。僕たちはテーブルに並んだお皿をどんどんたいらげて、押し込むようにして老酒を飲んだ。
「ヒトシさん、目に涙がにじんでるよ」
 ユリさんはなかなか減らない僕の老酒を少し手伝いながら小さな声で言う。
「ヒトシ、もっとほかに食べたいものはないか?」
 ユンロンはメニューを開いてウェイトレスを呼びながら言った。
 ほんと、もう無理だよ。

2003年10月6日(月)

 昨日の夜バルセロナを出発するための荷造りをしていると、すでに酒臭いムラートが黒人のドラッグの売人二人を連れて帰ってきた。部屋に入るなりドアの鍵を閉めて僕に聞く。
「お前も吸うか?」
「ハッシッシ? いや、いらないよ」
 彼らはタバコと混ぜて紙で巻いたハッシッシを吸いながらぼそぼそと小声で話をしている。売人は大切そうに小さく包んだ白い粉を出して、ムラートが広げた十センチ四方ほどの銀紙の上にほんの少しのせている。
 え、ヘロイン?お前「明日の朝仕事で早い」って言ってなかったか? ほんとバルセロナに何しに来たんだ。

 目覚まし時計が鳴り、閉め切った薄暗い部屋に朝が来たことを告げる。結局僕は一睡もできなかった。
 あれから夜中に、売人の一人はフルーツジュースの紙パックに入ったムラートの小便を知らずに飲んで、窓から首を出して吐きだしたあと怒ってどなり散らしながら二人で帰っていった。そのムラートは一晩中ゲロを吐き続けながら僕にあれこれと愚痴を言い、今では歯をがちがち鳴らせながら毛布にくるまって震えている。まったく、最低だ。

 僕はシャワーを浴びて、タルヘータ・デ・エストゥディアンテ(学生用居住許可証)を受け取りに警察署に行く。学校が十月いっぱいだから仕方がないのかもしれないけど、受け取ったIDカードの期限は十一月十五日。三か月以上かけて手に入れたのに、有効期限はあともう一か月と少ししか残っていない。ユンロンも学校は半年だけどもらったタルヘータ(カード)は一年分で来年の夏まで、別の日本人学生も学校は十月までだけど期限は今年いっぱい。基準がまったくわからない。

 そして夕方四時、仕事でオーストリアに行っていたカンさんと一緒に十五時間かけてマルベージャへ行くバスに乗りバルセロナを発つ。
 こんなに早くバルセロナを出ることになるなんて、二か月前にはまったく想像もしていなかった。サグラダ・ファミリアも外から見ただけで中には入ってないし、まだ全然観光していない。
 一時は迷いもあったけど、今になってようやくこの街が好きだと言えるようになった。遅すぎるわけではなく、こういう気持ちでこの街を出ることができるということはいいことなんだろうと思う。一か月後には一度戻ってくるし、別にまだむこうでの仕事が決定したわけじゃない。もしかすると今から二か月後には全然別の場所にいるかもしれない。
 僕は徹夜明けの長距離夜行バスのシートに座り、降ってはやむ雨で濡れた窓から、ちらちらと通り過ぎるにじんだ灯りを眺めた。

2003年10月12日(日)

 リゾート地マルベージャに来て今日で七日目になる。
 海に沿ってビーチが続き、大きなホテルとレストランやカフェが並ぶ。天気のいい日には泳いでいる人もいるが、シーズンオフだからか若い人は少なく、ほとんどは年配の人たちで、静かな砂浜でのんびりと日光浴をしたり日陰で読書をしたりして過ごしている。
 通りを歩いている人たちも外国人が多く、スペイン語に混ざって英語やフランス語が聞こえるが、アジア人は少なく、日本人はまったく見ないし中国人さえもたまにしか見ない。日本よりも時間がゆっくりと流れているバルセロナより、さらにまったりとしているのはシーズンオフのせいもあるのだろう。
 同じ語学学校なのにバルセロナ校とは生徒の雰囲気も少し違う。ヨーロッパ人がさらに多く、それ以外ではアメリカ人がたまにいる程度でアジア人はほとんどいない。四十歳を過ぎた人たちもたくさんいて夫婦で静かに留学生活を楽しんでいるようだ。みんな経済的に余裕のある人たちばかりで、同じピソに住んでいる金髪でスマートなスウェーデン人の若い男の人は、大きなデスクトップのパソコンに何十枚も映画のDVDを持っていて、先日はゴルフバッグを抱えて帰ってきていた。スラックスにはいつもきれいにアイロンがかけられていて、微笑んであいさつを交わすと真っ白い歯が見える。
 五人まで住める学校のピソは、小さいけれど明るくきれいなマンションで、今は三人で生活しているが僕以外は自炊している気配が全くなく、みんな毎日外食しているようだ。キッチンはいつもきれいに片付いていて、冷蔵庫の中には牛乳や缶ビールが少し入っている程度、野菜などの食材を入れているのは僕だけだ。
 テラスからは真下に公園の緑と噴水が見下ろせて、そのむこうには海まで見渡せる。窓の外に広がる秋の青空を眺めながら、僕はつい一週間前までムラートたちと住んでいた、バルセロナの薄暗い旧市街の、ウォッカの空き瓶の転がる古い部屋を思い出して、なんだか不思議な気分になった。

 昨日の土曜日はカンさんの運転する車にリカルドと一緒に乗って、飛行機でマラガに着くワタナベさんを迎えにいった。
 マルベージャから空港までは片道約一時間で、その間の海岸沿いにも他に小さな街が点在する。そのうちの一か所の、海に面したレストランに入って四人で魚料理を食べた後、今準備しているというお店を見に行った。
 マルベージャの中心地からさらに車で二十分ほど走ったところにプエルト・バヌースというヨットハーバーがあり、その周辺に広がる別荘地に観光客相手のお店やデパートのエル・コルテ・イングレスなどが立ち並ぶ。
 マルベージャ市内だけどすでにマルベージャとは別の街で、裕福な外国人観光客のためにつくられた街並みには全く生活のにおいがしない。そんな通りの一角にあるショッピングセンター内にそのスシバーはあり、二階に建設中のフィットネスクラブの一部分として美容院やカフェなどと並んで一階にオープンする予定だ。
 そこから車に乗ってさらに二十分くらいで、今カンさんたちが住んでいるピソにようやく着く。オーナーの持ち物を一時貸してもらっているという新築のその部屋には、藤で編んだソファやいすなどの全ての家具や食器が、デパートに並んでいるのと全く同じ状態でそろえてあり、リビングの横の小さな二つの部屋にはそれぞれシングルベッドとダブルベッドが置かれている。住宅地のはずれの、建物を建て終わった地区とこれから建てる地区との境目にあるようなマンションの周辺にはまだ何もなく、一時間に数本しかないバスに乗ってマルベージャの市街地に出るには、少なくとも一時間はかかりそうだ。
 予定ではこの同じ建物の四階にもう少し広い部屋を借りて、僕たち四人とカンさんの知り合いの韓国人を加えた合計五人で住むことになるらしい。
 家賃は会社もち、お店がはじまれば仕事は調理場なので食費もほとんどかからない。給料はみんな前の店の一・五倍くらいで、それはオープンする前から支払われるという。正直なところみんなその好条件にひかれてバルセロナからやってきた。
 でもいい話ばかりのはずがない、絶対に状況は変わると思う。どう変わるかは全然わからないけど。

 今日は朝からみんなで車に乗って西へ出発した。太陽を覆い隠した低い雲は一時間ほど走ると薄くなり、やがて青い空が見え始めた。ジブラルタル海峡の南に見えるはずのアフリカ大陸は海のかなたで灰色の雲にかすんで見えず、まばらに草の生えた茶色の大地は西へ走るにつれて少しずつ緑が濃くなり、時々は深い森も見られた。
 大西洋側の港町カディスに着くと、駐車場に車をとめて食事をして少し街を歩く。普段は無口で勤勉な感じだが短気なカンさんは、面倒くさそうにリカルドに言う。
「もういいだろう、街も見たし飯も食ったし。そろそろ帰ろう、充分だ」
 ヨーロッパを観光するのが好きなリカルドもカンさんに言い返す。
「片道二時間半以上かけたのに、めし食って十分歩いたら帰るのか? だいたいここまで来て何で中華なんだよ」
 この二人はすでに一か月近く一緒に暮らしていて、かなりストレスがたまっているみたいだ。

 マルベージャの仕事の話は、もともとカンさんが見つけてワタナベさんに持ってきた。そしてリカルドや僕にまで声がかかることになる。リゾート地のマルベージャで従業員を集めるのは大変なのでバルセロナからメンバーを集めてくることになり、仕事がなくても支払われる給料や無料で支給されるピソはカンさんの口利きによるものらしい。
 今年で四十九歳になり、はじめてスペインに来てから足掛け二十年目になるカンさんは、僕らの上司としてオープンする店の責任者になる。これまでずっと日本食の料理人として働いていた彼は、自分でレストランを持っていたこともあるそうだ。
 今日は日曜日で中には入れないが大きなカテドラルを見て、古い街並みを歩いて車に戻り、具合が悪いため海のそばで昼寝をしていたワタナベさんと合流する。
 ワタナベさんはカンさんと同じ歳で、日本では回転寿司屋を経営していたこともある。離婚をして単身スペインに来たのは約二年前で、ずっと申請し続けていた労働許可が今年になってようやくとれたという。

 僕たち四人は再びカンさんの運転するローバーに乗り込み、マルベージャへと向かった。ゆっくりと沈んでいく夕日が斜め後ろに見える。行きと同様、車の中には韓国語の演歌が流れている。
 たぶん、何事も問題なくお店が開店するなんてことはないんだろうな。僕はそんなことを考えながら窓ガラスに頭をもたせかけて、オレンジ色の夕日が反射した風力発電の大きな風車にまどろんだ目をやり、わくわくしながらうとうとした。

2003年10月19日(日)

 今月いっぱいで半年間の語学学校が終わり、せっかくつくったタルヘータ(IDカード)も来月半ばできれる。
 学校が終わったら一度バルセロナに荷物を取りに戻り、今後は十一月からマルベージャのお店で働きつつ、一人でスペイン語の勉強を続けようと思っている。
 火曜日には準備中のレストランへ行って中も見せてもらった。ガラス張りの明るい店内には内装もあらかた終わっていて開店を待っているかのように見えるが、調理場の中に置かれた冷蔵庫やガスや水道などの配置はめちゃくちゃで、仕事の流れを全く考えていない。お皿や調理器具などは何もなく、バルやフィットネスクラブの工事はしているが、レストランの方は作業をしているそぶりもない。カンさんは十一月初旬のオープン予定だと言ってはいるけど、もっと遅れても不思議じゃない。

 そんなわけで、僕は毎週日曜日にリカルドたちのピソに様子を見に行くことにしている。
 四人でカンさんのキムチチゲを食べた後、メニューについて話し合いが始まった。リカルドはノートパソコンに日本語で料理のアイデアを打ち込んでいく。カンさんとワタナベさんは白い紙に料理の名前を書き出していく。
「そうそう、リカルド。十一月にはこの上の階に引っ越すんだよね? その証明書ってある? タルヘータの延長に必要なんだ。十月三十日の飛行機でバルセロナに帰るからそれまでに書類の提出をすませておきたいんだけど」
「まだないよ。もしかしたら一軒家を借りるかも」
 会うたびに話が変わってる。来週聞いたらまた変わってるかもしれない。

 今週に入って毎日雨が降っている。一日中降り続く日もあって、今日も朝からしとしとと降っている雨は当分やみそうにない。メニューの話し合いも当分まとまりそうになく、僕はあいさつをすませたあと部屋を出て、細かい雨のしずくを落とす重い雲に覆われた空を見上げて傘を開いた。

2003年10月29日(木)

 相変わらず連日雨が降り続いていて、時には台風のように大雨が降ることもある。テレビの天気予報では全国的に雲に覆われていて、きっとバルセロナでも今頃雨が降っているんだろう。
 ユリさんとは携帯電話で毎日ショートメッセージのやり取りをしていて、数日おきに電話で話をしている。
 僕は部屋で勉強してすごしていて、あともう少しで終わる私立の語学学校の授業にはあまり出席していない。学校には行くが生徒に開放しているパソコンでメールやインターネットを少し見るくらいで帰ってくる。

 昨日リカルドに聞いたらレストランのオープンは十二月の中旬に延期したらしい。カンさんたちはオープン前から準備の仕事があるかもしれないけど僕はどうなるんだろう。明日からバルセロナに行く予定なので、今日またお店に顔を出してカンさんに質問してみる。
「オープンは十二月だけど仕事はあるよ。今週中に新しいピソに引っ越すからヒトシの寝る場所もあるし。バルセロナから帰ってきたら給料も出るよ」
 ついさっきまでリカルドと口論していたカンさんは早口にそう言う。
「ありがとう。じゃ、一週間で帰ってくるよ」
 よかった。ひとまずこれで収入と寝る場所は確保できた。でも毎回状況が変わり続けているから、帰ってくるころにどうなっているかは全然わからない。
 ひとまずこのどきどきする感じも悪くないし、胡散臭いところもひっくるめて楽しみだ。これからどうなるんだろう。

2003年11月2日(日)

 木曜日の飛行機でプラット空港に降り立つ。一か月ぶりのバルセロナは天気がいいせいで覚悟していたほどの寒さではないが、マルベージャよりも少し肌寒く、コートやセーターを着ている人たちもたくさんいる。アンダルシアから来ると、バルセロナの人たちは歩くのが早くせわしなく感じる。僕は財布の奥から使いかけの回数券を取り出してバスとメトロを乗り継ぎ、ユリさんの待っている部屋へと急いだ。
 その日の夜は、彼女が用意してくれた巻き寿司を食べながら久しぶりにゆっくりと話をした。

 平日はみんな学校や仕事があるので、週末を中心に友人たちと再会した。語学学校で知り合った日本人たちはスペインに来て約半年が過ぎ、別の学校に移ったり、旅行したりして、帰国までの残りの時間を過ごしている。みんなそれぞれ目的を持ってバルセロナに来て、それぞれの目的に向かって進んでいる。

 今日は昼過ぎにアキコさんと中央郵便局の前でおちあう。彼女はバルセロナに住んで十年以上になり、僕とはカタオカで知り合った。もともと観光でスペインに来たらしいのだが、そのときに出会ったスペイン人と結婚してこっちに移り住み、そのままだんなさんが亡くなった今もバルセロナで一人暮らしを続けている。
「どう、カンさんたちは元気? マルベージャのお店の準備は順調にいってる?」
「みんな元気ですよ。十二月にはオープン予定らしいです。アラブ人のオーナーがすごいお金持ちらしくて、全然急いでないですね」
 明るく人当たりがよい彼女はスペイン人たちと相性がよさそうで、友人もたくさんいるみたいだが、近い将来の老後をスペインでおくることに対して不安があるようだ。
「お母さんがまだ生きていたら日本に帰りたいんだけどね。もう帰る場所がないから」
 仕事はスペイン人に日本の家庭料理を教えているが、今週は忙しいらしくコーヒーを飲みながら小一時間ほど話をしてすぐ別れた。

 そのあと僕はユンロンとヤンと姪の二歳くらいの女の子を抱いたウェイリンと会い、ランブラス通りにあるカフェに入ってチョコラテ(ホットチョコレート)とチューロ(棒状のドーナツのような揚げたお菓子)を注文した。みんなあいかわらず元気そうで、中国に帰る予定はないらしい。スペインで仕事が見つかれば自分の家族をこっちに呼びよせたいと言っている。
 中国人とスペイン人のハーフの小さな女の子は口の周りにチョコレートをたくさんつけて、小さなくりくりした瞳をいっぱいに見開いて周りの風景を一生懸命見つめている。ウェイリンは彼女の口を拭きとりながら言う。
「この子のお父さんはカタルーニャ(スペインの中のバルセロナのある地方)の人だから、大きくなったら中国語、スペイン語、カタルーニャ語、英語を話せるようになるんじゃないかな」
「すごいね、そのころには一体どんな世の中になってるだろう」

 夜はミカさんとチハルさんと一緒に中華料理を食べに行く。彼女たちと知り合ったのもカタオカで、現在もウェイトレスをしながら労働許可の申請をしている。これからどんな職業につくにしてもまず労働許可がないと正式な契約ができず、日本食レストランは労働許可を取るのに結局一番手っ取り早いらしい。
 二人ともバルセロナに住んでちょうど五年、学校にはもう通っていないが今も学費を払って学生ビザを延長し続けている。ほんの二年位前までは労働許可を取るのも簡単だったらしいけど、当時はこんなに長く滞在するつもりはなかったので申請していなかったという。
 そして今回、同じ日に同じ書類を提出して許可がおりたのはチハルさんだけでミカさんはおりなかった。たぶん人数制限でもあるんだろう。どんな選定基準があるのかはわからないけど、この紙切れ一枚で人生が変わることだってあるだろう。もちろんどっちがいいかなんてわからないけど。

 どんな人でも毎日今日という日を選択していると思う。どんなにまわりに流されて生きている人でも、今の生活をやめないという決断を毎日し続けている。もちろんどうしようもないことは世の中にたくさんあるけど、特殊な例を除けば、その人はどうしようもない事情を受け入れるという今日を選択している。
 今日を選ぶということは他の全てを切り捨てるということ。そのために必要なものは勇気ではなく覚悟。僕たちは毎日今日という日を選び、たくさんのものを捨て続けている。
 なので僕は、自分にとって何が大切なのかがわかっているということは、それが何であれ必ずいいことだと思っている。そして、そのために何かを選ぶということは必ずいいことだと思っている。
 誰もが自分の背中で背負える限りのリスクを背負って、両腕でつかめる限りの幸せをつかむ。等身大の物語は一人ひとりの日常の中にある。

 みんなうまくいけばいいのにな、と僕は思う。

2003年11月8日(土)

 ちょうど一週間のバルセロナ滞在を終え再びマルベージャに戻って、カンさんワタナベさんリカルド、そしてアリカンテからやってきた韓国人のハンが住むピソで、合計五人の共同生活が昨日からはじまった。
 場所はプエルト・バヌースの職場のすぐそば、一階にはいつもガードマンがいて、スポーツジム、テニスコート、プールが自由に使えるきれいなリゾートマンションだ。床は大理石、サロンに置かれたテーブルは厚いガラスでできていて、いすのクッションは豹柄、壁には天井まで届く大きな鏡がはめ込まれている。テレビにはDVDがついていて、テラスの外側に沿った花壇には名前のわからない花が赤や紫に咲いている。
 部屋は二つあってそれぞれに韓国人二人と日本人二人が入り、サロンでリカルドが寝る。彼は別のピソを探していて、見つかり次第そっちに移るらしい。仕事も生活もずっと一緒だとストレスもたまるからだろう。

 週末は仕事もなく別にすることもない。小さなシングルベッド二つでいっぱいの僕たちの部屋には寝る以外のスペースはないので、幅一・五メートルほどのテラスに出したテーブルで僕はスペイン語の勉強をはじめる。
 散歩したり一階のスポーツジムに行ったりしているうちに、一日はぼんやりと過ぎて太陽はぼんやりと沈んでいく。
 夕方とったシエスタ(昼寝)のせいか夜中に目が覚めた僕はワタナベさんと外に出てみることにした。確か今日は月食だったはずだ。十時ごろ見たとき確かにまん丸だった月は、半分ほどもう欠けていて、僕たちはベンチに寝転がって夜空を見上げた。タイルが張られた夜中のコンクリートはきゅっと冷たく、フリースの上からゆっくりと僕たちの体温を吸い取った。
 数十分間じっと眺めていると、じんわり月の表面の影が大きくなっていくのがわかる。欠けている部分も全く見えないわけじゃなく、影の向こうで完全な満月がはっきりと見える。

 僕のスペインでの目的は住むこと。そのために日本で立ててきた目標は、まず最初の半年間で自立した生活ができるようになること。まだまだ語学力が足りないけど、カタオカとマルベージャの仕事で、何とか日本から持ってきたお金をキープしながら生活できている。
 僕は二十代の間、数年おきに仕事を変わったり、引越しをしたり、旅に出たりしながら、ゼロから積み上げてはそれを壊す作業を何度も繰り返してきた。
 年に数回会う両親は顔をあわせるたび、定職につこうとしない僕に「お前の育て方は間違えた」と言い続け、母親は毎回必ず泣いていた。
 普通の二十代の人たちが、決まった仕事を持ったり家庭を築いたり、少しずつ積み上げてつくりあげるものを、僕はこれからの十年間でスペインでつくろうと思う。
 そこで、スペインで僕が初めて立てた目標は、三十代のうちにピソを買えるようになるということ。今年で僕は三十二歳になる。今の僕は全く何も持っていないけど、あと八年の間で言葉をおぼえて、仕事をしてお金をためて、ローンを組んだりできるような信用をつくって、スペインで不動産を買えるような身分になろうと思う。

 一時間以上かけて地球の薄い影は丸い月の表面を覆いつくした。中心に濃く暗い闇をつけた丸は縁に行くにつれて明るくなり立体感のある目玉になった。じっと見つめすぎたせいで遠近感を失ったそれは、手の届きそうなピンポン玉みたいに実在感を持って空中に浮いたまま僕らを見つめ返していた。
 途中から外に出てきたリカルドと三人で、吸いつけられるようにその不思議な満月をいつまでも見つめ続けた。

2003年11月13日(木)

 今週は毎日朝からマルベージャの市街地に出て、学生ビザ延長のための書類を集めていた。こっちの住所で住民票をつくりなおし、社会保険に入って、語学学校の入学証明書を手に入れる。そして今朝やっと警察署で提出し終わった。

 午後からはプエルト・バヌースに戻ってみんなと仕事をする。
 ショッピングセンター内の一室で工事をするらしいので、その中に詰め込んである荷物の引越しを月曜日からやっている。ダンボール箱に入った食器や調理器具などと一緒に、他の事務所やフィットネスクラブで使うものや、建築工事で使用されたあとの廃材などが山積みになっていて、丸二日かけて隣の部屋に運んだ。それが僕の初出勤の初仕事だ。そしてその荷物は来週地下に運びなおすらしい。はじめに荷物が置かれていた部屋はきれいにつくられていたにもかかわらず、全ての天井が壊されて工事に入った。
 壊すんなら最初からつくらなければいいのに。荷物も地下に降ろすんならなんで隣の部屋に移したんだろう? 何一つうまく理解できないまま作業は進んだり戻ったりしている。

 今日の午後の僕の仕事は工事現場の入り口で見張り番。これまで二階のフィットネスクラブの建設を手がけていた業者とトラブルがあったらしく、弁護士が来て写真を撮るまで誰も入らないようにしてくれと言われる。建物の裏の、建築現場への出入り口として使われている止まったままのエスカレーターに腰掛けて、僕は一人でスペイン語の辞書を開いた。
 横にあるレンタルハウスの簡易事務所から若いスペイン人の男がたまに顔を出して話しかけてくる。
「寒いだろ、明日の朝までそこにいるのか?」
「まさか。弁護士が来たら帰るよ」
 関係者以外立ち入り禁止。足元注意。そんな表示と説明が書かれた看板が現場事務所の壁にはられているのは日本と同じだ。
「トラブルがあったって聞いたけど、ここの現場で何があったの?」
「何も知らないのか? お前んとこの社長、役所に許可を取らずに工事をさせてたんだよ。建設許可がないとこれ以上作業を進められないから、おれたちは撤退するんだ」
 会社のオーナーと重役はアラブ人で僕たちの上司はモロッコ人、カンさんやリカルドを通して伝わってくる話は毎日内容が違う。サインをしたと言っていたリカルドの労働契約も全く手続きされていなかった。
 ここならそれくらいのことがあっても不思議じゃないな。たいていのことじゃもう驚かないよ。

 十二月十五日オープン予定と言っていたけど回転寿司のレーンをまわす電気はまだつながっていない。隣の美容院と同時に開店するという話もあったけど、その美容院はこれから天井をはがして照明設備を全て作り直すらしい。保健所の検査が入って許可がおりなければ営業はできないはずだけど、実はレストランを経営する会社自体まだ存在していない。今あるのはフィットネスクラブを経営する会社だけで、そのフィットネスクラブは建設途中で、コンクリートがむき出しのまま何もできていない。で、その工事はどうやら無許可だったらしい。
 段取りが悪いというより、そんなものはじめから存在していないみたいだ。会社がないのに仕事が始まって、許可もないのに工事を始めている。どこに置くのかも決まっていないのにただ運べと言われた荷物の移動に僕たち五人は一週間以上も費やしている。
 同じショッピングセンターで、すでに営業している同じオーナーのクリーニング屋やインターネットカフェもどうやら会社は存在していないらしく、働いている人たちは正式な契約なしで給料だけもらっている。
 もうたいていのことじゃ驚かないよ。

2003年11月29日(土)

 十一月の後半は仕事らしい仕事もなくだらだらと過ぎていった。
 もともとまともな仕事はほとんどなかったけど、僕たちの上司であるアラブ系の人たちが、みんなモロッコに行ってしまっていてさらにやることがなくなった。イスラム教のラマダン(断食月)をしていたらしい。
 でも仕事があればすぐに行かなければならないので、プエルト・バヌースの小さな街と五人で住むには小さ過ぎるマンションで、あいかわらず軽い軟禁状態になっている。やることがあるならまだしも、これといってやることもなく狭い空間と狭い人間関係の中でひたすら繰り返される毎日は、みんなの心の中に少しずつストレスをためていく。レストランはいつオープンするのかもわからず、会社に対する不信感と仕事への不安はつのる。にもかかわらず誰も出て行かないのは部屋代がただなのと給料がもらえるからだ。
 ここでの僕の給料は一四〇〇ユーロ、カンさんワタナベさんリカルドは二〇〇〇ユーロ台の前半から半ば、アリカンテの中華料理屋で十年近くのキャリアがあるハンは、僕より数百ユーロ多い一〇〇〇ユーロ台の半ば。ちなみに僕がバルセロナでもらっていた額は契約なしで一か月七八〇ユーロ、そしてそのお店でのワタナベさんの給料は契約して一〇〇〇ユーロ台半ば。
 そう考えるとここは金銭的には申し分ない。ましてやお店はまだオープンしていなくて仕事らしい仕事もなく、家賃も光熱費も会社もち、僕たちは月一〇〇ユーロの共益費をみんなで出し合えばそれでいい。もう少しピソが広ければ、お互い自分のリズムで生活もできてプライベートな時間も持てて、人間関係もきっと違ったものになったんだろう。

 僕はこの機会を利用して毎日スペイン語の勉強をしてすごしている。お金を少しでもためて、スペイン語の勉強をして、あわよくば労働許可も取得して、あと何か月もつかわからないけど様子を見はからってやめてしまおう。口にはださないけど、もしかしたらみんな同じようなことを考えているのかもしれない。
 一時期ピソを探していたリカルドは、もう今では探していない。ビザをもっていない彼は「不法滞在者なので部屋を借りて契約できないからだ」と言っていたけど、本当はここに長居する気がなくなったんじゃないかと思う。短期間でお金をためてやめるつもりなら、住みやすさを考える必要なんてない。
 お金持ちにこだわるワタナベさんは本気でお金持ちになろうとしているのか、数ユーロくらいのお金も出し渋っている。最近別の仕事を探していて、ここに住んで給料をもらいながらアルバイトをしようとしているみたいだ。一人でやるならともかく、スペイン語がほとんど話せない彼は何かとリカルドを使おうとしている。
 韓国人のハンはこの国にもう六年間いるのにスペイン語が話せない。中国生まれで中国育ちの彼はこれまで中華料理レストランで働いていて、中国人たちの中で暮らしていたから必要なかったのだろう。
 そしてカンさんはあいかわらずリカルドと仲が悪く、その影響でハンも彼の悪口を言う。カンさんはワタナベさんのこともよく思っていないみたいだ。

 それぞれ思惑があって五人の人間が集まり、閉じられた空間の中で時間だけが過ぎていく。当たり前だけど、こんな僕にそんな彼らのことを悪く言う権利なんて全くない。
 街中のいたるところに飾られたクリスマスのイルミネーションもなんだかそらぞらしい。

2003年12月15日(月)

 二人で一泊二十五ユーロの、狭くて薄暗い部屋のカーテンの隙間から、朝の日差しと共にものすごい数の小鳥の鳴き声が入ってくる。外の小さなパティオ(中庭)の鳥かごにはたくさんの小鳥たちがいたが、朝のそのさえずり声は明らかにその小鳥の数を超えているように聞こえる。明るい色の実をたくさんつけたオレンジの木の横には砂埃をかぶったテーブルが置いてあり、今はシーズンオフだけど夏になったらきっとたくさんの旅行者でにぎわうんだろう。
 バルセロナから遊びに来たユリさんとここに泊るのは今日で三日目だ。

 木曜日に飛行機でマラガに着き、マルベージャのバスターミナルで待ち合わせをしたのが夕方の五時。二人で旧市街まで歩き、石畳の道をスーツケースをひいて安宿を探しているときに、チワワをつれた太ったおじさんが教えてくれたのがこのペンションだ。その日と翌日とでマルベージャとプエルト・バヌースを見てまわり、土日の二日間でマラガを観光して、昨日の夜マルベージャに帰ってきた。
 十月の頭にバルセロナを出て来て以来、十一月の初旬に僕が一度むこうへ戻り、これが彼女と二度目の再会になる。夏にスペインに来て一年間の語学学校を申し込んできたユリさんは、二月にその学校を休学してマルベージャにやってくる予定だ。そのためにも今回の旅行でこの街のことを彼女によく知ってもらいたい。

 今日は月曜日なので僕は朝からプエルト・バヌースの職場に顔を出す。彼女が来ているのなら別にいいよと他の人は言ってくれるけど、どんな仕事でも仕事は仕事だ、一応様子を見に行くことにする。ワタナベさんとハンはいつものように店の前で特にやることもなく本を読んだり話をしたりしていた。
 突然用事を言いつけられるとき以外は、僕も同じようにスペイン語の辞書を開いて勉強したり音楽を聴いたりしている。お店はオープンしていないから僕たちがたまに言いつけられる用事って言うのは、たとえばコンテナ一杯分くらいのごみを何時間もゴミ捨て場まで往復して捨てに行ったり、十トントレーラー満載の家具や材木を一日中かけて下ろしたり、そういうのだ。
 僕たちが運んだ四畳半くらいの部屋なら天井までとどきそうな量のごみは、内装工事などで出た木屑や、購入した品物の段ボール箱や、発泡スチロールなどの産業廃棄物だ。なんで建物の反対側にあるゴミ捨て場にもっていかずにここに山積みになってるんだ? 作業責任者が確認して一言指示していればすんだはずだ。
 トレーラーで届いたいすやテーブルは、スシバーの横で工事中のカフェテリアのもので、置く場所なんか考えられずに届いたそれらの荷物はとりあえず建物の中に運び込まれて、そのあと空いている部屋に行き当たりばったりで入れられた。それ以外の木材は店の前のテラスのひさしの材料で、重いものは1本四〇〇キロくらいあるだろう。とりあえずレストランの前に積んでブルーシートをかぶせたが、工事の流れやお店の開店などの都合でもう一度運びなおすこともありうる。
 ほんのいくらかの計画性でこれらの仕事はゼロになる。

「今日、仕事ないの?」
「ないよ。彼女はどうした?」
 スペイン語が上手でないハンは、身振りで「早く彼女のところに行ってやれ」と言っている。雨が降ると寒くなるけど天気のいい日向はティシャツでもすごせそうな陽気だ。
「もう少したら彼女もバスでこっちに来るよ」
「ハァ、ソウデスカー」
 僕より一つ年上でひょうきんなハンは、ここだけ日本語で言う。彼の知っている日本語のフレーズはこれと「ハイ、モシモシッ」の二つだけだが、どこでおぼえてきたのかイントネーションが完全に日本人のおじさんで、聞くたびにふきだしてしまう。
 お店の内装と外装の工事はすんでいるけど、出入り口の扉はまだベニヤ板でできていて、店の前のエントランスの床の板張りは開店を待たずに雨でそりかえり、業者がはがしなおして補修工事をしている。こんな光景にももう見慣れたな。この前もタイルを張ったばかりの床に配管を通すため、次の週にはハンマーでたたき壊していた。

「ヒトシ、お前リカルドと一緒にサロン(リビング)で寝ることはできないか?」
 ワタナベさんは前から一人部屋をほしがっていて、僕がプエルト・バヌースに移ってきた初日にも同じことを言っていた。当時はリカルドが別のピソを探して出て行くという話だった。別荘用につくられたピソの僕たちの部屋は、お客さんが泊まっていくようなスペースしかなく、大人が二人で生活するには確かに狭すぎる。彼は僕が来る前からこの部屋を一人で使うつもりだったのかもしれない。リカルドはもう部屋を探している様子がないし、ワタナベさんも相当ストレスがたまっているんだろう。数日前にはリカルドに、早くピソを見つけて僕と一緒に出て行くようしきりに勧めていた。
「無理ですよ。サロンはテレビやテーブルでいっぱいですから」
「大丈夫だよ。そんなの動かせばいい。おれはカンとバルセロナで約束してるんだよ。こっちに来る条件として、一人部屋を確保するってことを」
「それは僕とは関係のないことでしょう。カンさんと納得行くまで話し合ってください」
「だめだから、こうやって頼んでるんだよ。お前ならリカルドとも仲がいいし今の部屋に二人で住んでいるのと同じだろ」
「それとこれとは話が別です。サロンはサロンですから」
 僕に必要なのは寝る場所と静かに勉強する場所だけで、別にどこでも問題ないんだけど、僕の持ち物はリカルドよりも多いので、他の人たちがサロンを使えなくなってしまう。だいたい二部屋しかないうちの一つを彼が独占して、リビングで二人が生活するっていうのはどう考えても不自然だ。だめだ、こんなやつの言うこと聞いてちゃ、次は何を要求されるかわからない。
 お互い少しずついらいらしながら話は平行線をたどる。そのうち、今僕が住んでいる部屋は本来ワタナベさんのもので、僕は単にリカルドが出て行ってサロンが開くまでの間仮に住まわせてやっている、ということまで言い出した。そんなの聞いたことがない。
 偶然通りかかったカンさんを呼び止めて確認してみる。
「カンさん、僕はサロンに移らなきゃならないの? ワタナベさんがあの部屋は自分一人のものだって言ってるけど」
「移らなくていいよ。ナベ、昨日話しただろ。一人部屋がほしいのは誰だって一緒だ。サロンで二人寝るなんてひどすぎる。五人で住んでるんだからそれくらいがまんしろよ。あのピソを見つけてきたのはお前とリカルドだろ? 狭いのがいやならなんでその時言わなかったんだよ。いまさらどうしようもないだろ」
 うん、その通りだ。今度はカンさんとワタナベさんの言い争いになった。
 お昼前の太陽の光がほんのり暖かい。そういえば昨日ユリさんと散歩していて、植木の中にハイビスカスが咲いているのを見つけた。
「約束は約束だろ。最初と話が違うじゃないか」
「じゃ、なんでそんなピソ見つけてきたんだよ。どうしてもいやなら自分で部屋を探せばいい、それぐらいの給料はもらっているだろ。それがいやなら他に仕事を探して出て行けばいい、一人部屋を与えてもらえるような職場に。いつまでも子供みたいなこと言うなよ」
 そんな感じで話は終わった。お互い納得しきっていないみたいだけどこれ以上進展しようもない。そしてカンさんがワタナベさんに言った「いやなら出て行けばいい」という言葉を、ワタナベさんは口論から逃れるためのおどしだと受け取っているみたいだけど、僕が見ている限り彼は本気だと思う。
 お店の前の入り口と歩道との間には小さな人工の池と数メートルの短い川があり、ポンプが止められたままの水には藻が育って緑色ににごっている。
 ワタナベさんはこっちに向き直って話を続ける。
「ユリちゃんがこっちに引っ越してくるのはいつだ?」
「二月の予定です。バルセロナでまだ学校があるから」
「もちろん一緒に住むんだろ? 他にピソ探して」
「いや、別々に住みますよ」
 どうしても追い出したいみたいだ。僕はプエルト・バヌースに仕事もあるし部屋もある。でも彼女がスペイン語の勉強をしたり生活したりするのはマルベージャの旧市街のほうが環境がいい。まだ決定したわけじゃないけど、今のところ二人でそう話し合っている。
「なんでだよ、お前たちはつきあってるんだろ? なんで一緒に住まないんだよ」
 この人は何を言っているんだ?
「恋人同士別々に暮らしている人たちはいくらでもいますよ。そんなにおかしなことじゃないでしょう?」
「マルベージャに呼ぶのはお前だろ、普通一緒に住むだろ? お前たちはセックスしないのか? 同棲して相手のいやな部分を見たくないからか? 相手のきれいな部分だけを見ていたいのか?」
「彼女がこっちに来るのは彼女の意思で決めたことです。どうやって生活していくかは二人で話し合って決めます。そんなに追い出したいですか?」
 こうなったら何が何でも出て行ってなんかやるもんか。そんなにいやならそっちが出て行け。
 スシバーの前の道路は海へ向かって続いていて、空にカモメが飛んでいるのが見える。正面のエル・コルテ・イングレス(デパート)のクリスマスの飾りつけの下を、皮のコートを着た女の人と半そでのポロシャツの男の人が笑いながら歩いていく。
 僕たちは話を終えて別れた。

 昼過ぎにユリさんがプエルト・バヌースに着いて、二人でゆっくりと通りを歩いた。
 マルベージャの中心地のほうには市場や安いバルもあり、昼間からスペイン人のおじさんたちがおしゃべりしながらひまわりの種を食べ散らかしている公園もあるけれど、バスで二十分ほど走ったこっちの街にはそういう生活の匂いのする場所があまりない。公園はあるけど真っ白でまだ新しく、直線で設計された近代的なデザインにはあまり温かみを感じない。ちょろちょろと流れる噴水の水までもが、どこか上品でよそよそしい。
 夏になってたくさんの人でにぎわえばもっと違ったものに見えるんだろうか。今おかれている状況が変われば、肩の力を抜いて素直にこの風景を受け止めることができるんだろうか。
 そうかもしれない。現に今ユリさんと一緒にいて、ほんの少し街の空気が変わったような気がする。僕は彼女の手をとって海の方へと歩き出した。真っ白に塗られた建物の壁に日の光が反射して、細い噴水の水にちらちらと光った。

 大きなヨットハーバーには大きな高級クルーザーがたくさん係留してあり、その前にはメルセデスやポルシェがぎっしりと並んでいる。
 僕はこれらの船の持ち主とその使い道を想像してみようとしたけれど、黒いスーツを着たマフィアたちがお酒を飲みながら夜中の海で武器か何かの商談をしている映画のワンシーンが思い浮かんだだけでうまくイメージすることができなかった。
 海に沿ってレストランやブティックが店を開け、僕たちはいろんな話をしながらその通りを歩いた。ヨットハーバーの端まで来ると、それを沖から取り囲むような形にのびた堤防に足を向けた。コンクリートでできた堤防とその両側にそって積み重ねられた岩の上にはたくさんの猫がいて、オレンジ色に傾いたゆるい陽の光を名残惜しそうに眺めていた。僕らは一番先端の港の入り口を示す灯台の根元に腰掛けて、音もなく色を変えていく夕日を見守った。
 アンダルシア地方特有の真っ白い建物の壁に夕焼けが映り、ピンク色に染まる。海も空も反対側の山も静かにやわらかいピンク色に包まれていったあと、東の空から順番に夜がやってきた。

 その日の夜はカンさんからの申し出で、みんな一緒に晩ご飯を食べることになった。僕たちはユリさんが買ってきてくれたウィスキーを飲んで、カンさんとハンがつくってくれた無国籍アジア料理を食べた。ちりめんじゃことしし唐の炒め物は日本の家庭料理で、春雨の炒め物は韓国っぽい。車えびをにんにくと焼いたのは中華料理屋で食べたことがある。この明太子はどこで買ってきたんだろう。
 ワタナベさんは、先日中華を食べに行って酔っ払った僕とリカルドの話をユリさんにしている。カンさんもお酒が入ると饒舌になりいろんな話をした。
「サイシュウ島はいいところだよ。ホテルやゴルフ場があって、毎週末日本からたくさんの観光客が来ていた。昔は囚人を島流しにする場所だったんだけどね」
「カスティーゴってなんだ?」
 わからない単語が出てくるたびにワタナベさんはリカルドに聞いている。そのたびに彼は日本語で説明する。
 ひそかに心配していた口論にはならずに、楽しく夕食を過ごすことができた。

 夜遅くに、鳥かごが中庭に並んだペンションに帰ってくると、僕らはもう一度乾杯をした。窓の外から小鳥の鳴き声は聞こえてこず、どこかの階で共同シャワーの水の流れる音が遠くに聞こえた。
 彼女は明日の飛行機でバルセロナに帰り、二月までもう戻ってこない。僕がマルベージャに来てからもう二か月半がたち、プエルト・バヌースのピソに入ってから一か月がたった。仕事はまだ始まっていないのに状況はどんどん変わっている。
「まあ、なんとかなるさ。こっちに来るのを楽しみに待っているよ」
「うん」
 彼女は空いたグラスにヘレス(シェリー)を注ぎながら小さくうなずいた。
 次に彼女と再会するころには職場も住む場所もどうなっているかわからない。いつ誰がやめていってもおかしくないし、僕自身いつまでここにいるかもわからない。
 でも二人で流れに身を任せているのが、なんだか少し心地よい気がした。

2003年12月16日(火)

 僕とユリさんは昼過ぎにペンションを出て、生ハムのボカディージョ(バゲットのサンドイッチ)を食べたあと、バルセロナに帰っていく彼女を僕はバスターミナルまで見送った。
 そのあとプエルト・バヌースの職場に立ち寄って、いつものようにショッピングセンターのベンチに座りスペイン語の辞書を開く。今日も特に仕事はないみたいだ。
 そこへ少しあわてたリカルドが来て日本語で言う。彼が僕に日本語で話しかけてくるのは内緒話をするときだ。
「たった今マジョルカの友達から電話があった。仕事があるから来てくれないかって」
「へー、いつから?」
「明日」
「え?」
 マジョルカ島は地中海にうかぶ島で彼はバルセロナに来るまでの一年間そこのレストランで働いていた。今からほんの半年前のことだ。
「で、どうすんの? もうカンさんたちには言ったの?」
「もちろん行くよ。彼らには明日の朝話をする」

 この日の夜、僕たちは近くのバーガーキングでコーヒーを飲みながら、彼の再出発を祝った。

2003年12月31日(土)

 リカルドはむこうでの仕事の件はふせたまま、クリスマスを友人たちと過ごすということにしてマジョルカ島へ出発した。その一週間後残りの荷物を送ってほしいと連絡が入り、僕はカンさんにやんわりとぼやかしながら説明して、彼のスーツケース二つと小さな段ボール箱を二回に分けて発送した。もう彼が戻ってくることはないだろう。うん、これでよかったんだ。
 四人になってもそのマンションが小さすぎることに変わりはなく、これまでどおりのだらだらとした毎日が続いた。
 ただワタナベさんは日本語で話す相手を失って、ほんの少し無口になったような気がする。部屋から出てサロンで寝てくれという話があって以来、僕は彼とほとんど口をきかなくなっていた。
 そして先日彼から仲直りをしようと言われる。会社とカンさんが信用できないようで、マジョルカとバレンシアに日本食レストランの仕事の話があって、どちらかに行こうかと考えているらしい。僕もワタナベさんの言うことはもう信用できない。都合のいいように利用されるのはまっぴらだ。

 クリスマスシーズンに入ってもこれまでどおりの日々が続き、僕はスペイン語の勉強をしたり、マンションの一階にあるスポーツジムに通ったりして暮らした。ワタナベさんは年越しをコロンビア人の彼女と過ごすために昨日マドリーへ発ち、ハンは夕方から近所の中華レストランの調理場へ手伝いに行き、僕はカンさんと二人きりで晩ご飯を食べながら新年を迎えた。
 リカルドが急にマジョルカに行ってしまったという話を上司のモロッコ人にしたところ、大変怒っていたらしい。そりゃそうだ。でも労働許可の手続きをしてもらえないのでは、リカルドだってここでいてもしかたがないだろう。カンさんはワタナベさんのことも、仕事を続ける気があるのかどうか心配しているようだ。
「ナベサンはどうも隠れて仕事を探してるみたいだな。別にそれならそれで堂々と言えばいいのに。ヒトシはどうだ? 正直なところこの職場のことはどう思う?」
「僕はまだ学生ビザなので、契約や労働許可をきちんと用意してくれるなら続けたいとは思うけど、今のところ会社のことはあまり信用できないですね」
「そうだな。おれもアラブ人たちが何を考えてるのかわからないときがある」
 せめて雰囲気だけでもと、つけたそのカウントダウンの映像はドイツのチャンネルのもので、色とりどりのイルミネーションをバックに、セーターやコートを着込んだ群集を映し出していた。僕らのいるサロンの窓の外では午前〇時を告げると同時に花火の音がいくつか聞こえたが、ひとしきりなった後またもとの静けさに戻り、僕らは無言のままテレビの中の花火を眺めた。何を言っているのか全然わからないドイツ語の放送を聞きながら、僕は外の暗い通りでかすかに聞こえる話し声にぼんやりと耳をすませていた。

icon続きを読む

inserted by FC2 system