2004年目次

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icon11月26日
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icon12月17日
icon12月19日
icon12月24日
icon12月31日

2004年1月23日(金)

 十二月半ばにオープンすると言っていたレストランはまだ開かず、一月中に必ずオープンするという話を聞いたが、もう誰も本気で信じてなんかいないだろう。
 お昼ごろにマドリーからのトラックがついて酒、醤油、米などの日本食材が届き、地下の倉庫にみんなで運び込む。ショッピングセンターのわきにある狭い地下倉庫には、すぐに必要のない食材や調理道具などがとりあえず入れられてあって、もうほんの少しほこりをかぶっている。
 普段ならそのまま周辺で待機しているのだが、今日はカンさんにことわって職場を離れ、マルベージャのバスターミナルに向かう。

 バルセロナの語学学校を休学して、ユリさんが今日マルベージャにやってくる。僕はこの日のために、彼女がスペイン語を勉強するための公立の語学学校を調べて、住む部屋も見つけてある。バスターミナルからさほど遠くない住宅地の中にそのピソはあって、スペイン人の女の人二人と一緒に住むことになる。年齢もユリさんと近くておそらくいい友達になってもらえるだろうと思う。
 丘の上の小さなバスターミナルで再会した僕らは、なだらかな下り坂をスーツケースを押して、バルセロナでの生活やマルベージャでの生活について話をしながらゆっくりと歩く。正面には遠くに白くかすんだ水平線が見える。

 ピソではユリさんのルームメイトになるモニカとルシアが待っていて、僕はユリさんを紹介する。二人とも二十代半ばくらい、モニカはガイドブックの編集をしていて、ルシアはそこでデザインの仕事をしている。
 二人は僕たちを部屋に案内してここでの生活について丁寧に説明してくれる。台所の冷蔵庫の共有の仕方、家賃のほかにガス代や電気代などの支払い方法、一週間ごとに交替でまわってくる掃除当番など。
 ユリさんの広い部屋には外へ向いた窓はないが、建物の内側に向いた窓が一つあって、ベッドが二つと壁にクローゼットが据え付けられてある。二人でも生活できそうなこの広さで一か月二四〇ユーロはさすがにバルセロナより安い。

 荷物を部屋に置いてから二人でプエルト・バヌースまで出かけて、カンさんたちにあいさつをする。お店がオープンすれば、彼女もここで仕事をする予定だ。
 マルベージャに戻って、安い中華料理屋で一人四・九ユーロの食事をする。ビュッフェ形式の食べ放題だけど、安い冷凍食品ばかりであまりたくさんは食べられない。
 帰り道にスーパーで食材や飲み水などを買い物していく。すっかり日が沈んだ公園の街灯の下ではまだ子供たちが走り回って遊んでいた。

2004年2月3日(火)

 昨日、スシバーの右隣のイタリアンカフェと左隣の美容院がオープンした。スシバーも明日にはオープンする予定だというが、カンさんは意外とのんびりしている。冷蔵庫の中は空っぽのままで、メニューもまだ決まっていない。
 ウェイターも中国人の二十代後半くらいの男の人と女の人が決まった。ユリさんも半日だけバイトをはじめて、僕と一緒に毎日店に出勤して掃除をしたり手伝ったりしている。
 昨日の夜、僕はユリさんの部屋に泊まって一緒に晩ご飯を食べて、今朝プエルトバヌースに行こうと二人でバス停で待っていると、同じショッピングセンターの服の修理屋で働いている女の人と偶然出会い、車に乗せていってもらう。
「昨日の夜、リカルドが来てたわよ」
「リカルド? 彼はマジョルカで仕事してるはずですよ」
「でも、またこっちで働くみたい」
 え? カンさんともうまくいっていなかったし、あんな辞め方したのにどうするつもりなんだろう。

 ショッピングセンターに着くと、彼は実際にいてイタリアンカフェの調理場で働いていた。カフェのメニューを整えてくれと頼まれたらしい。そしてそのあとスシバーのホールで働く予定だという。
 頼むほうも頼むほうだけど、来るほうも来るほうだ。
「マジョルカの仕事はどうなったの?」
「また行くよ。春になって忙しくなるまでの間また時間ができたんだ」
 あいかわらず身軽だな。
「でもカンさんと一緒にスシバーで働くのは難しいんじゃない?」
「大丈夫、大丈夫。会社はちゃんと給料出すって言ってるから」
 それで大丈夫なの?
 国籍にかかわらず、いろんな人が誰かの悪口を言っているのをいつも耳にするけど、本人同士は意外と平気な顔で一緒に仕事をしている。みんな大人だな。

 僕は日本食レストランの調理場のほうに行く。明日のオープンは無理にしても、毎日準備があるはずだ。
「あ、おはようございます、カンさん」
 カンさんはリカルドが帰ってきたことについて、たぶん腹を立てているだろう。今朝、鮮魚が届いたようで調理場で大きなサケをさばきながら僕に聞く。
「ナベと会ったか?」
 やっぱり機嫌はよくないけど、リカルドじゃなくてワタナベさん?
「今日はまだ会ってないですけど、何かあったんですか?」
 カンさんの話によると、昨日の夕方ワタナベさんは自分の財布に入れていたはずの二十ユーロ札二枚のうち一枚がなくなったと言い出したらしい。使った記憶がないので、盗まれたに違いないと考えたワタナベさんはカンさんにお金について質問した後、昼寝をしていたハンを起こして「お前の財布を見せろ」と言った。起こされたハンは何も知らずに財布を見せると、その中に二十ユーロ札が一枚入っていて、ワタナベさんは「これはおれの金だから返せ」と言ってとろうとしたそうだ。で、当然そのあと三人で口論に。
 めちゃくちゃだ。ハンはいたずら好きなのでいつも小さなウソや冗談を言ったり、持ち物を隠したりくらいのことはしているけど、お金を盗んだりはさすがにしないだろう。証拠も何もない。そもそも二枚入っていたお札のうち一枚だけ盗む泥棒っているだろうか?
「一緒に住んでいるのにひどいと思わないか? ハンはお調子者だけど人のものを盗むようなやつじゃない。そんなに信用できないなら出て行けと言ってやった」
 で、そのままワタナベさんは帰ってきていないらしい。

 お昼は店の調理場でハンがつくったまかないを食べて、午後も引き続き肉や魚の下準備をする。でも、メニューも決まってないのに、なんで仕入れができるんだろう?

2004年2月10日(火)

 お金を盗まれたと騒いでいたワタナベさんは、翌日には帰ってきてみんなと一緒にまた生活し始めた。それまではあまり店に寄り付かなかったけど、僕たち三人と普通に調理場で仕事をするようになった。彼は毎日カンさんとメニューについて話をしていて、ハンと僕は調理場で仕込みをしている。スシバーは明日にでもオープンすると言われながら、もう一週間がたった。
 今日もいつものように、僕はワタナベさんとハンと調理場で仕込みをして一日過ごす。全く何もなかったメニューはようやく形になってきた。
 ユリさんは毎日お皿を運んだり掃除をしたりしているが、さすがに一週間もたつともうやることがないようで、中国人のウェイターたちと一緒に退屈そうにしている。
 リカルドは毎朝八時に出勤して、イタリアンカフェの調理場でパンやケーキを焼いたりアイスクリームをつくったりしていて、お昼過ぎには仕事を終えて家に帰っている。今回は僕たちのピソのリビングではなく、別の人と一緒に住んでいる。
 今はシーズンオフだけど、隣にはデパートがあり周辺で働いている人たちもたくさんいて、開いたばかりのイタリアンカフェは順調にお客さんが入っているようだ。

 仕事を終えてから、ワタナベさんとリカルドに誘われて近くのバル(居酒屋)でビールを飲む。
「いつ開くんですかね。このお店」
 三分の一くらい飲み干した、クルスカンポ(スペインのビール)の赤いチョッキを着たキャラクターが描かれたグラスをカウンターのテーブルに置いて、毎日日常のあいさつのようになってる質問を僕は繰り返す。
「それがどうも明日らしい」
 ワタナベさんはまるで秘密を打ち明けるように声をひそめて言う。でも昨日も誰かがそう言うのを僕は聞いた。
「毎日言ってるじゃないですか。今度は本当なんですか?」
 去年の秋にオープンするはずだった予定が、もう年も越して二月になってる。
 この間の僕たちの人件費だけでもばかにならないはずだ。アラブ人のオーナーはお金持ちなので多少の出費は気にならないにしても、いくらなんでもおかしすぎる。別の会社で利益が出ているのでここは赤字でも税金対策になるんじゃないかとか、これまでにも僕たちはたびたびそんな話をしてきた。
「今度は本当だよ」
 リカルドが日本語で言う。
 彼の話によるとカンさんとハンと中国人のカマレロ(ウェイター)二人は明日で全員クビになるらしい。そしてワタナベさんとリカルドと僕の三人が残って、お店をオープンさせる。ワタナベさんがカウンターで寿司をやって、僕が中の調理場をやって、リカルドがユリさんに手伝ってもらいながらホールをすることになる。
「なにそれ? 誰が言ってたの?」
「ナビルだよ」
 ナビルは会社の上司のモロッコ人で、スシバーのマネージャーのような人だ。
「彼が言ってたんなら間違いはなさそうだけど、本当にそんなことありえるの?」
「あるよ。明日の朝話し合いがあるはずだよ」
 そうなったら僕も労働許可をとったり契約したりしてもらえるんじゃないかとワタナベさんは言う。
「で、明日の昼そのままプレオープンらしいんだよ。関係者だけ無料で試食してもらうんだ」
 ワタナベさんは少し興奮気味で言う。調理場の中は大体準備ができていて、いつでもお客さんを入れることができる。
 僕たちは今後のお店について夜遅くまで話しあった。

2004年2月13日(金)

 リカルドたちとビールを飲んで話をした翌日の水曜日、午前九時にあるといわれていた会議は結局なく、午後の四時に変更したといわれたがやっぱりそれもなく、試食会ももちろんなく、何もおきずに一日が終わった。
 リカルドは毎朝八時に出勤してカフェの仕込みをしていたが、夜中の午前二時に変更して朝九時まで毎晩一人で働いている。

 それから二日がたって、今日のお昼にとうとうスシバーがオープンした。
 ショッピングセンターや会社の関係者のみに無料で料理を食べてもらう。メンバーは変わりなく、回転寿司のカウンターの中ではカンさんとワタナベさんが寿司を握り、隣の調理場でハンと僕が調理する。ホールは中国人の二人とユリさん。
 今日は試食会ということで注文はとらず、お寿司と数種類の料理のお皿を回転レーンでどんどんまわして自由に取ってもらう。約七十人のお客さんが来店したらしく、ただで食べて文句を言う人もいないだろうけど、おおむね好評だったようだ。
 これまで何かと文句を言い合っていたけど、お客さんが入ってみんな一緒に仕事を始めたら、自然と職場は明るい雰囲気になったような気がする。

 昨日、リカルドの働いているイタリアンカフェの調理場のミキサーが壊れたらしい。はかりもないので、スシバーの調理場のものを毎日使っている。
 昨日の夜中の二時にリカルドが出勤したら、バターなどの食材が仕入れられていず、ミキサーもなく、何もつくれないので仕方なく家に帰ってしまった。そしたら今日会社から連絡が入って彼はクビになった。

2004年2月16日(月)

 金曜日のお昼に試食会があって、翌日の土曜日から通常営業と聞いていたけど、結局お店は開けず。夕方仕事を終えてから、ワタナベさん、リカルド、ユリさんと僕でマルベージャのバルに飲みに行った。
 クビになったリカルドは単に会社にいいように利用されて、必要なくなったから捨てられたわけだろうけど、たぶん彼もカンさんたちを追い払うために裏側でいろいろ動いていたんじゃないかと思う。
 これまでの給料を受け取り次第、再び彼はマジョルカ島に帰る。これでもう本当に戻ってくることはないだろう。
 ビールを飲みながらリカルドとワタナベさんは、カンさんとアラブ人の会社の悪口でずいぶん話がはずんでいる。いつかマジョルカ島で日本の居酒屋でもやろうと二人で盛り上がっていて、そのときには僕とユリさんも一緒に行こうと言ってくれる。もちろん気持ちはうれしいけど、リカルドはまだ不法滞在のままで、僕は労働許可を持っていない。これまでの職場でのいきさつを見ていても、なんだか素直に盛り上がれない。

 週があけて、今日からやっと普通に営業を開始する。お昼の営業は回転寿司のみ、テリヤキなどの料理も少しつくって一緒にまわす。夜は回転寿司はやらず、普通のグランドメニューのみ。初日なのでしかたがないけど、お客さんは会社の関係者が来るだけで、彼らにはまだ無料でサービスしている。
 仕事が終わってから、カンさんとリカルドとユリさんと僕とで近くのバルに行く。これでお別れだからか、普段あんなに悪口を言い合っていたのにカンさんとリカルドは笑いながら会社の愚痴で意気投合している。こんなにこの二人が仲よさそうに話をしているところを見たのは初めてだ。僕とユリさんは二人の様子を横目で眺めながらビールを飲む。

 バルでもずっと無口だったユリさんが、帰り道のバス停で言う。
「ずっといがみ合っていたのに、なんであの二人がこんなに仲良く話をできるんだろう。なんか、何を信じていいかわからない」
 ユリさんの乗る夜行バスはなかなか来ず、アウディの赤いコンバーチブルが一台ヨットハーバーのほうに走り去っていった。
 真っ暗な夜空に見えた小さな星をぼんやり眺めていると、少しずつ数が増えて、空いっぱいいたるところでちかちかとまたたいていた。

2004年2月19日(木)

 お店は一応はじまったけど、オープンするまでの様子を見ていて、僕の労働許可や労働契約を準備してくれるとはとても思えない。ユリさんも中国人二人との仕事はあまり快適なものではないらしく、もうそろそろこの職場をやめてしまおうかと二人で話をしている。
 そうなると、僕たちがこの街にいる理由もなくなってしまう。ユリさんは、バルセロナの語学学校を休学している状態なのでむこうに帰ろうかとか、短期で日本に一時帰国しようかなどと検討している。僕もある程度お金がたまったので少し旅行でもしようかと考えている。
 毎日誰かの悪口や陰口を聞いて、それぞれのウソやかけひきを見ていると、どんどん世の中が嫌いになってしまいそうだ。そうでもしなければ僕たち外国人にチャンスはないものなんだろうか。

 お昼は回転寿司と一緒にテリヤキや酢の物をお皿に乗せてまわす。まだあまり忙しくはないのであまらないように注意しながらつくる。夜は仕込みをするが、お客さんは結局ゼロ。
 夜の営業を終えて、掃除をしながらワタナベさんと話をする。このままこの職場にいても労働許可を出してもらえそうにないので、この仕事をやめようと考えているということ。
 彼も別の仕事を探していて、いつまでここにいるかはわからないようだ。

2004年3月5日(金)

 スシバーの仕事をやめる日が、とうとう明日にせまった。
 契約をしていないので、十日ほど前にカンさんや周りの人たちと話をしてあっさりと決まった。短い間だったけどいろんな経験ができて、いい思い出はあまりないけど楽しかったと思う。貯金も多少できた。

 お昼の営業が終わるころに、マジョルカ島にいるリカルドから僕の携帯に電話が入る。プエルト・バヌースにある四つ星ホテルのレストランで、日本人の調理師を探しているらしい。今のところ仕事は探していないが、話だけでもというので直接会いに行くことにする。
 今働いているショッピングセンターから歩いて十分くらいで着く。待っていた店長はロシア人で名前はマリア。胸が大きくグラマーな金髪の女の人で、たぶん二十代後半くらい。
 ホテルの一階にあるレストランで日本食をだしているが、現在調理場で働いている二人の中国人がもうやめるらしく、その代わりにできれば日本人の料理人が二人必要だという。夏になれば工事中の日本食レストランがオープンするので、そのあとは人数を増やしてそちらに移行するらしい。給料や契約についても話をするが、今いるところよりはきちんとしていそうだ。もちろんそんなの全くわからないけど。
 僕は彼女に、今の状況と大まかに調理場でできることや経歴などを説明する。そして「数日中に連絡します」と言ってわかれる。
 興味はあるし面白そうな気もする。ショッピングセンターのスシバーにバルセロナから僕が来た理由も、もともとは単なる好奇心だった。

 ユリさんと公園で落ち合ってのんびり話をする。最初は彼女も仕事をやめる予定だったけど、もう一か月残って仕事を続けることにした。そして、僕が今住んでいるところは職場のピソなので、仕事をやめたら彼女の部屋に一緒に住む。

 夕方になってまた店に行く。夜はお客さんが数組。僕たちは仕込みをしたり調理場を整理したりして過ごす。
「ここをやめたらホテルのほうの仕事に行くのか?」
 ワタナベさんが僕に聞く。リカルドを通して彼もむこうの仕事の話を聞いていて、検討しているところだ。ユリさんもあと一か月でやめるので、そうなったらこの職場で日本人は彼一人になる。
「いや、まだわからないですね。面白そうだけど、労働許可を出してもらえないならバルセロナに帰ろうかと思ってます」
「おれも行ってもいいんだけど、リカルドはむこうから連絡がくるって言うのに全然こないんだよ。向こうから電話がかかって来ないと、今もらってる給料よりもいい条件を出すなら行ってやってもいいっていう風に話をきりだせないからな」
 正直この人とはもう一緒に仕事をしたくない。

2004年3月10日(水)

 ショッピングセンターのスシバーの仕事をやめてすぐに、ホテルのレストランのマリアに連絡を取る。労働許可と労働契約を準備してもらえるなら仕事をしたいということ、ワタナベさんに料理長は無理なので代わりの人を探したいということを伝える。彼は回転寿司とてんぷらの経験はあるけど、それ以外は驚くほど何も知らない。彼女も賛成してくれて、今の僕の学生ビザやパスポートのコピーを渡す。会社の弁護士に相談してくれるらしい。
 僕はバルセロナにいる友達に頼んで、日本語図書館など数箇所の掲示板に求人の張り紙を張ってもらう。そしてOCSニュース(スペインに住んでいる日本人のための月刊の新聞)にも広告も出すことにする。これでも見つからなかったらどうしよう。

 今日もマリアと会って今後のことについて話をする。全くあてなんかないけど、僕はマドリーに行って新しいお店の調理場を任せられるような料理人を探してくると提案する。
 彼女は毎日マジョルカ島のリカルドと電話で話をしていて、ワタナベさんが四月からこっちの職場に来ることにもう決まったらしい。でもいずれ夏には日本人の料理人が必要になるので、僕がマドリーに行くという案には賛成してくれる。交通費などの費用も出してもらえる。
 今後のメンバーについてはワタナベさんと話をして決めるようにと言われる。リカルドの紹介なので彼女は僕とワタナベさんのことを信用してくれているんだろう。日本食レストランがオープンするにあたって必要とされているということは、日本人としてうれしいし興味もある。できる限りのことはやってみたいと思う。

 帰りにショッピングセンターによって最後の給料を受け取る。カンさんたちは僕がホテルのレストランに顔を出していることをもう知っていた。ウェイターの中国人から聞いたようだ。ワタナベさんはマドリーから彼女が遊びに来ていて、昨日から仕事を休んでいるらしい。

 一緒に住み始めてまだ数日しかたっていないけど、ユリさんは最近なんだかナーバスになったような気がする。

2004年3月17日(水

 十二日の午後に電車でマドリーへ着いた。
 十日の夜に同時爆破テロがあったらしく、アーべ(スペインの新幹線)が到着したマドリーのアトーチャ駅は、大規模のデモで大変な騒ぎだった。周りにはたくさんの警備員と救急車、担架でけが人を運んでいるのが人ごみのむこうに見える。テロ反対のチラシ、ティシャツ、ステッカー、ポスター、駅の前の通りには数え切れないくらいたくさんのロウソクに火がともされている。
 マルベージャはもう春でシャツ一枚でも過ごせたが、マドリーの曇り空の下ではフリースを着ていてもまだ薄ら寒い。

 バルセロナで同じ語学学校のピソに住んでいたアメリカ人のクリスと久しぶりに再会して、何軒か日本食レストランを教えてもらう。彼もあと数か月でアメリカに帰る。
 マドリーでは日本食材店で掲示板にビラをはらせてもらい、日本食レストランを食べてまわり、日本人がいれば知り合いで仕事を探している人がいないかたずねてみる。
 最初の一軒目でわかったことだが、やっぱり難しいようだ。そのお店の日本人オーナーは、経験があって労働許可を持っているならどこでも探しているということを僕に説明した後、「ところで君は労働許可を持っているの? その会社とは契約してる?」と逆に聞いてきた。
 仕事を探したことはこれまで何度もあったので、働く人を探す方が簡単だろうと思っていたけどそうでもないようだ。バルセロナで貼ったチラシにも連絡はまだ一人もこない。

 今日でマドリーについて六日目、まわった日本食レストランは十軒以上。全部のお店で話をさせてもらうが結局見つからず。あきらめて帰ることにする。毎日電話で報告をしているマリアにも正直に結果を話す。
 マルベージャのユリさんと電話で話をする。
「おつかれさま。大変だったね」
「残念だけど、いろんな人と会えて勉強になったよ。たんなる語学留学でこんな経験までできて。で、そっちはどう? ワタナベさんは帰ってきた?」
「帰ってきたけど、スシバーはクビになったみたいだよ」
「え?」
 ワタナベさんは、彼女がマドリーから遊びに来ているから二、三日休ませてほしいと言ったきり、一週間何の連絡もなく休んでいたらしく、今日ひょっこり戻ってきて無断欠勤のためクビになった。ホテルの店で仕事が決まったから、スシバーはどうでもよくなったんだろうか。

 一日中歩き回って最後の仕事を済ませ、夜八時発のマラガ行きの電車に飛び乗る。マラガに着いたのは夜中の十二時、朝まで仮眠をとろうと思い、駅の隣のマルベージャ行きバスターミナルの前の道端で横になる。寒くないのが救いだが星は見えない。
 隣で並んで寝ていたモロッコ人ホームレスの酔っ払いが明け方ごろ寝小便をする。そして自分の小便に驚いて声をあげている。
「うわっ」
 彼は何か口の中でぶつぶつ言いながら、濡れたズボンをぼんやり眺めたあと、数メートル移動して小便の水たまりをよけてもう一度横になる。またすぐにいびきが聞こえてくる。
 曇り空は東の方からうっすらと明るくなり、もうすぐ朝が来る。

2004年3月23日(火)

 マドリーから帰ってきてすぐにマリアに報告しに行く。交通費などのお金をかけたにもかかわらず成果がなかったというのが気に入らないのか、彼女の反応は冷ややかだ。
 今回の件と関係があるのかはわからないけど、僕の労働許可の申請も大変難しく時間もかかると言われる。予想はしていたので別に驚かない。本当に手続きしてくれるのであればいくら待ってもかまわない。
 たまに会うスシバーのハンたちは、ホテルの会社はひどいから、あそこで仕事をするのはやめておけとしきりに言ってくる。クビにされた中国人から話を聞いているんだろう。
 でも、そっちもたいして変わらない。スシバーと同じ会社のショッピングセンター内の旅行会社のドイツ人は、二か月分給料をもらっていないと言って先週やめたばかりだ。

 で、昨日ホテルのレストランで、ワタナベさんや中国人のカマレロ(ウェイター)たちをあらためて紹介される。僕がワタナベさんと会うのはショッピングセンターのスシバー以来で、中国人たちと会うのは二度目。
 ホテルの食堂には以前働いていた中国人たちが作った日本食のメニューブックが置いてあり、ひとまず僕たちはそのメニューどおりに全ての料理を準備しなければならない。自己紹介や簡単な打ち合わせをしてとりあえず別れる。

 そして、今日は中国人たちが残していったままの調理場を朝十時から掃除する。冷蔵庫の中の腐っているものや、腐ってなくても何かわからないものをどんどん捨てていく。冷蔵庫と冷凍庫の中を整理して、足りないものをチェックする。包丁を研いで鍋を磨く。夜十一時ごろになって少しお客さんが入る。仕事が終ると、もう夜中の一時になっていた。

2004年4月8日(木)

 今日からスペインはセマナ・サンタ(復活祭の聖週間)にはいる。日本のゴールデンウィークのように連休が続き、観光地はどこもにぎわう。
 ここプエルト・バヌースも少しずつ人が増えて、人通りは冬の二倍くらいになっている。僕たちの働いているホテルも海に面していて宿泊客は増えているようだ。
 ショッピングセンターのスシバーも少しずつ忙しくなっているようで、ワタナベさんがやめたあとまた新しい中国人が入った。ユリさんも今は昼も夜も両方働いている。

 ホテルのレストランは特に看板も何も出していず、入り口にメニューブックを一冊置いているだけなのでお客さんは宿泊客がたまに来るくらいで、あとは決まった時間にほとんど毎日来るオーナーのみ。夜のお客さんがゼロということも珍しくない。

 オーナーはヨルダンの人で、完全に家族経営。お父さんが全ての会社の会長で、たくさんいる息子たちがたくさんあるホテルやレストランやゴルフ場などの経営をそれぞれ任されている。そのうちの一人がレストランのオーナーとして毎日食べにくる。一夫多妻制なのでみんな奥さんが何人かいて、兄弟たちもお母さんは別々かもしれない。
 お金持ちに生まれた人たちは、童話の世界の王様のように、お金持ちとして暮らしお金持ちとして死んでいく。
 僕たちのお店の王様は甘いものが好きなようで、仕事を始めてまず最初にマリアから与えられた仕事はデザートをつくること。とにかく王様によい料理人だと思われないと、全く何もはじまらない。採算は二の次らしい。スシバーのあるショッピングセンターを見ていて、こんな会社どうせ長くはもたないだろうって思っていたけど、どうやら僕が想像していたのとはスケールが違うようだ。
 石油王という言葉は比喩ではなかった。

 毎日決まった時間に来るオーナーの注文は毎日同じ、てんぷらとお寿司とテリヤキと焼き飯。それ以外の時間はあれこれとやったことのないデザートを試作する。チョコレートケーキやイチゴのアイスなどを作ってみるが反応はいまいちのようだ。
 ワタナベさんとマリアはメニューのことや仕入れのことをたまに話しあっているが、どうもうまくかみ合っていない。
「マリアはデザートをつくれとうるさいけど、そんなことをしても時間の無駄だ。早くメニューを話しあって決めないと」
「そうですね。でもそれがワタナベさんの仕事じゃないんですか」
「おれ一人じゃそんなのは無理だ。部屋はもらったけど給料は最初言っていた額と違うし、場合によってはアルへシラス(アンダルシアの地名)にある別の店に行こうかと思ってるんだけど、お前はどうする?」
「僕はもう少しここにいますよ。労働許可がないとどこに行っても同じだろうし、夏までにオープンするっていう店もどんなのか見てみたいし」
 僕はコンデンスミルクの缶を鍋の中で転がしながら答える。ようは好奇心だけなんだけど、ワタナベさんと一緒に転職する気はもちろんない。
「その缶詰は何だ?」
「コンデンスミルクです。デザートで使うから湯せんにかけておいてくれってマリアに言われたんです」
「コンデンスミルクって何だ?」
「え? 普通の練乳ですよ」
「なんだ、それは? 甘いのか?」
「えぇ、もちろん……甘いですけど……」
「まぁ、とにかく、デザートなんかよりほかにやらなきゃいけないことがたくさんあるんだよ」
 ワタナベさんはぶつぶつ言いながら調理場から出て行った。
 コンデンスミルクがわからないってどういうことだろう。デザートはやらないんじゃなくて、できないんだろうと僕は思った。

2004年4月16日(金)

 今週の日曜日、セマナ・サンタのため出勤して店を開けるが、仕事中突然原因不明の嘔吐と下痢で歩けなくなる。たぶんウィルス性の伝染病だろう。ホテルのウェイターたちも同じ症状でみんな順番に仕事を休んでいた。いろんな国の人たちが出入りするから、きっと誰かが持ちこんだんだろう。
 二日ほど仕事を休んで寝て過ごしたら、熱も下がって何とか立てるようになったが体重は四キロほど落ちていた。

 今朝出勤すると、ウェイターの中国人とマリアが朝から言い争っていた。マリアはずいぶん怒っているようだ。
 中国人のウェイター二人は二か月分の給料をまだ受け取っていないらしく、そのことをホテルのレセプションや周りの人たちが知っていて、彼女は中国人が言いふらしたと思ったらしい。
 言われるのがいやなら払えばいいのに。
 今日のお客さんはお昼二組、夜はゼロ。

2004年4月28日(水)

 マリアは最近どうも機嫌が悪い。オーナーが来て注文が入るたびに調理場でヒステリックにどなる。
「早くしろ。何分たったと思ってるんだ」
 まだ二分しかたっていない。毎日同じものを注文するから準備はしている。これ以上早くはやりようがない。彼女はワタナベさんとも最近毎日のようにどなりあっている。オーナーとどんな話をしているのかはわからないが、いい話ではなさそうだ。

 お昼の仕事のあと、ユリさんと待ち合わせをして映画を見に行く。ここ数日ユリさんの体調がよくない。昼も夜も仕事をするようになって、ゆっくり勉強したり休憩したりする時間がなくなったからだろうか。疲れやストレスなどが考えられるが、僕は仕事をやめることを勧める。別に無理して続ける必要はない。
 映画のストーリーのせいか、ユリさんは映画館の中でも涙ぐんでいた。

2004年4月30日(金)

 ユリさんの体調はあまり優れず、生理もきそうでこない。念のため妊娠検査薬を薬局で買ってきて朝から検査してみる。うっすらと色が変わっている。陽性のようだ。でも一〇〇パーセントではないらしい。お昼に別のもう少し高価な商品を買って試してみることにする。
「体調はどう?」
「あいかわらず」
 体調のせいなのか検査結果のせいなのか、僕たちは普段よりも少し無口なままバスに乗りプエルト・バヌースのそれぞれの職場に向かう。

 お昼のお客さんはマリアの友人とホテルの宿泊客の二組だけ。寿司や焼き飯も用意していたがオーナーは今日は来ず。オーナーが来ない日はマリアは怒鳴らない。

 エル・コルテ・イングレス(スペインのデパート)で待ち合わせをして、検査薬を買ってトイレで尿検査をする。結果は陽性。女子トイレから出てきたユリさんが取り出した白いスティック状の先は、はっきりと色が変わっている。
「間違いなさそうだね」
 ユリさんは言う。
「そうだね」
 僕は答える。
 デパートの一階のトイレの前の広い通路は壁がガラス張りになっていて、外の明るい人通りがよく見える。天気がよく、日差しはもう夏のようだ。ベンチのようになった六十センチほどの段差に腰掛けた僕たちの隣には観葉植物が置いてある。
「どうしようか」
 自分自身に問いかけるようにうつむいたまま彼女は言う。
「なんとか労働許可をとって就職するから、スペインで二人でやっていこう」
 自分自身に言い聞かせるように僕は答える。
 週末の午後のデパートはにぎわっていて、絶えず僕たちの前を買い物客が通り過ぎる。たくさんの食料品をのせたカートと太ったおじさんを残して、ワンピースを着たおばさんと化粧の濃い女の人が大きな声で笑いながらトイレに入っていく。
「だめだ、わかんない。ちょっと今考えられないよ」
 ユリさんは首を少し振って、大理石の床を見つめながらつぶやく。
「いいよ。ゆっくり考えよう」
 僕は腕組みをして前を通り過ぎる人たちの足元を眺めながらいう。
 お父さんにつれられた金髪の小さな男の子が笑顔でトイレから飛び出してきて、お母さんに向かって走りよる。
 観葉植物の濃い緑の葉が少しゆれた。

2004年5月4日(火

 ユリさんは月曜日でスシバーのホールの仕事をやめた。もともとやめる予定だったし妊娠しているのがわかったので、負担になるようなことは僕もさせたくなかった。今のところつわりはないようだが、一日中眠いらしく毎日十二時間近く寝ている。やはり普段より涙もろくて、うれしいことがあっても悲しいことがあっても毎日泣いている。

 モニカに相談して、仕事でいけない僕のかわりにユリさんと一緒に診療所へ行ってもらい、いろいろ教わる。今朝は僕も一緒に病院に行って、診察を受けるために必要な書類のことなどを聞く。
「だめじゃないの。学生でスペインに来てまだ九か月なのに、子供なんかつくっちゃ」
 産婦人科の女医さんは言う。全くその通りだ。
 給料明細、社会保険証、住民票などが必要で、そのうちのいくつかは職場で契約しないともらえない。
 今働いているホテルで労働許可をつくってもらえるまでこのまま待とうか、それとも別のところに移ろうか。

 普通なら日本に帰って仕事を探すのが一番確かだが、そうしたら再び海外で暮らすのはより困難になるだろう。日本で幸せに生活している僕たちのイメージが、なぜか全くうかばない。僕の頭はどこかおかしいんだろうか。
 僕はもともと海外で生きていくためにスペインに来たし、そのために二十代の間にいろんなことを試してきている。迷いは全くない。でも家族ができたら、僕一人だけの問題ではなくなる。
 ユリさんにはお父さんがいず、日本ではお母さんとお姉さんと三人でこれまで暮らしてきた。ずっとスペインで生活していくということについて僕たちは何度も話をしてきたし、それについては彼女も同意してくれているが、今こうして実際に目の当たりにするとやはり悩んでいる。
 今後の生活について話をすると、妊娠しているせいもあって、毎回お母さんのことを思っては必ず泣いている。

 最近知り合った日本人が働いているアンダルシアの別の街のレストランで、人を探しているという話があったけど、そのときは興味がなかったので聞き流したが、今僕は何が何でも労働許可をとって就職しなければならない。そこは日系企業なので労働条件はきちんとしていそうだ。契約して書類をそろえて、ユリさんが安心して生活できるように全て整えなければならない。
 時間はもうない。

2004年5月7日(金)

 お昼のお客さんは数組。午後五時には仕事を終えて外に出る。いつものように公園のベンチに座ってユリさんに電話をする。
「気分はどう?」「今、何をしていた?」「今日は何を食べた?」
 ユリさんは、携帯電話越しに少しけだるそうな声で一つ一つ答える。
 きちんとした仕事が見つからず、そろそろあせりはじめている僕は、少しでもユリさんを元気付けてあげたいと毎日仕事の合間に電話をしているが、声を聞いて励まされているのはきっと僕のほうなんだろう。
 今の職場にこれまでいた理由は好奇心なので、ほかにきちんと書類手続きをしてくれる会社があればすぐにでも移りたいが、労働許可の申請をしてくれるような仕事は簡単には見つからない。今のホテルで申請してくれるのであればもちろんこのまま腰を落ち着かせたいが、これからのことは全くわからない。

 僕がOCSニュース(日本語の新聞)に載せた料理人の求人広告を見て、時々問い合わせの連絡が入るようになった。そのたびにマリアに報告するが、ホールの中国人二人も先月末で辞めたばかりで、今はお金がなく人を増やせないらしい。彼女の機嫌も日に日に悪くなる。
 連絡してくれた人たちには、今ある会社の状況を正直に説明する。実際僕に人事の権限はないが、日本食レストランのオープンの準備のために日本人としてお手伝いしているということ。夏になって新しいお店がはじまればおそらく人が必要になるだろうが、今は事情が変わってしまい人員を増やすことはできないということなど。
 熱心な数人とは何度か電話で話をしたり直接会ったりもしたが、僕自身学生ビザのままで契約もなく、いつまでここにいるかもわからない。今誰よりも就職活動しなければいけないはずの僕が面接して、アドバイスしている。
 なんでこんなことになってるんだろう?

 夜のお客さんはゼロ。店長であり唯一のホール係のマリアが一階の客席にいずに、地下の調理場の隣の倉庫でパソコンに向かっている。注文が入ってくるはずがない。
 一週間ほど遅れていたけど四月分の給料を受け取る。一四〇〇ユーロ、今の仕事にこの額は全く不満はない。本当かどうかはわからないが、マリアは三月分もまだ受け取っていないらしい。

 この日の夜になってやっと、以前一度だけ会って話をしたことのある日本食レストランの人と連絡がつく。急に仕事を探すことになったのでぜひ話をさせてほしいと頼んでみるが、求人の件はもうなくなってしまったらしい。心のどこかで当てにしていたのでがっかりする。これで今いるホテル以外に手持ちの選択肢はなくなった。

 もうユリさんも他の部屋もみんな寝静まっている。僕は住宅地の中の星の見えないテラスに出て、一人でタバコを吸う。バルセロナかマドリーにでも仕事を探しに行ってみようか、などと考えながら安いウィスキーを飲んで、次のタバコに火をつける。
 真っ暗なリビングを通って部屋に戻る。隣のベッドではユリさんが眠っている。何とか彼女を安心させてあげなければいけない。そう思いながら寝顔を見るが、励まされているのはきっと僕のほうなんだろう。

2004年5月11日(火)

 病院で診察を受けるために給料明細が必要なので、何とかつくれないかとマリアに相談してみる。しかしやっぱりきちんと契約しないと出せないらしい。僕は事情を説明して頼んでみる。
「彼女が妊娠して結婚したいと思っているんだが、彼女が病院へ行くためには給料明細がいるんだ。すぐに契約することはできないかな」
「わかったわ。そういうことならもう一度オーナーに相談してみるけど、でもなんであなたの彼女は仕事をやめたの? 妊娠したってまだ仕事はできるでしょう」
 そういわれて初めて、そういえばそんな選択肢もあったのかと僕は少し驚く。ロシアから来てスペインで働いている彼女も、一人の女性として他人事ではないのだろう。
「もともとやめる予定だったんだ。むこうも契約はなかったから給料明細はなかったし」
「そうなの。一応話はしてみるけど、すぐにできるかどうかはわからないわよ」
 今日は昼も夜もお客さんはゼロ。オーナーすら来なかった。こんな状態で契約の話なんかしてもやっぱり無理だろうか。

 夜ピソに帰ってモニカに聞くと、緊急用の社会保険証を出してもらえたらしい。一応これだけでも診察は受けらるけれど、いずれはきちんと書類をそろえたほうがいいと言う。来週の火曜日もまた一緒に病院に行ってくれる。
 ありがとう、モニカ。本当に助かった。
 出産までには二人で住めるように部屋を探してはいるが、小さくて安い部屋はなかなか見つからない。「もしよかったらここにずっといてもいいよ」と彼女は言ってくれているが、このままだとそうなるかもしれない。

2004年5月21日(金)

 当分住む場所は今いるピソで、モニカとルシアと一緒に暮らすことになった。ほかに二人で住めるアパートを探したけど、どれも寝室が三部屋くらいあって家賃も九〇〇ユーロ以上する。今の僕たちには大きすぎるし高すぎる。赤ん坊が生まれたら何かと迷惑だろうと思っていたが、同居人の二人は快く了承してくれた。
 昨日の朝早くから県庁所在地のマラガに行って、役所で並んで労働許可申請のための用紙をもらって来た。マリアに渡して全てコピーしておいてもらい、上司と会社の弁護士と話をしてもらうよう頼んでおく。労働許可と契約の話は仕事を始める前から何度もしていたはずだし、書類なんかたぶん僕が取りに行く必要はないんだろうけど、こうやってせっつかないと話が進んでいる気配が全くない。

 昨日の夜ユリさんは泣いて、僕とやっていく自信がないと言った。
「じゃ、どうするの?」
「日本に帰って一人で育てる」
 こういう話も実はこれまで何度もしている。
「二人でも大変なのに、一人だともっと大変だよ」
「今の大変さと比べたらそっちのほうがまだいい」
 毎日十時間寝て、今の大変さって何だよ。外で仕事して労働許可とか社会保険とか部屋探しとか、何とかしようと走りまわっているのは誰だよ。僕がどれだけユリさんのこと考えてると思ってるんだ。ユリさんが静かに生活できるように、ユリさんがストレスを感じずにいられるようにって毎日朝から晩まで考えて苦しんでるのに……そんな感情がこみあげるが、胸の中に押さえつける。
「今の大変さって、何が一番大変?」
「ヒトシさんと一緒にいること」
「僕と別れれば解決しそう?」
「わかんない」
 彼女は泣く。妊娠しているせいもあるんだろうと思って、なるべく刺激しないようにつとめるがうまくいかない。
 僕は彼女の言葉で傷つき、僕の言葉は彼女を傷つける。

 今日もマリアはヒステリックに怒鳴り散らす。ワタナベさんも苦笑いしている。
 夜の帰りのマルベージャ行きのバスの中で、僕たちが来る前にホテルの調理場で働いていた中国人と出会う。彼は僕たちとちょうど交代するように、今はスシバーで仕事をしている。もう六十歳くらいでスペイン語はやっぱりあまり話せない。ハンは彼のいないところでは彼のことをシャンハイ・メンティーラ(うそのシャンハイ)というあだ名でよんでいる。シャンハイ出身で嘘つきらしい。
「ユリは仕事をしていないのか?」
 シャンハイは僕に聞く。ユリさんは僕がやめたあとのスシバーで、彼と一緒に仕事をしたこともあるが、僕は何度か顔をあわせたくらいだ。
「いや、してないよ。スペイン語の授業があるからね」
 ユリさんは妊娠していることは言わずにスシバーの仕事をやめたから、みんなまだ知らないだろう。
「ホテルの店は忙しいか?」
「全然。いつも決まった人しか来ないよ」
「オーナーか?」
「そう」
 彼が働いていた時とホテルの状況はあまり変わっていないだろう。そして彼は、僕とワタナベさんがかつて住んでいた部屋に今住んでいるはずだ。
「こんな時間にバスでどこ行くの?」
「マドリーだ。マラガから夜行列車に乗る。中国人の弁護士に会いに行くんだ」
 彼はホテルの給料があと一週間分支払われないので訴えてやるといっている。一週間分の給料ってたぶん五〇〇ユーロ前後だと思うんだけど、マドリーまでの交通費と弁護士の手数料払ったらほとんど残らないんじゃないだろうか? すごい執念だな。

 夜またユリさんと話をする。これからも二人でやっていくということでひとまず落ち着く。
 彼女はまた泣く。理由は本人にもわからない。

2004年5月23日(日)

 昨日の夜も午前三時ごろまでユリさんとこれからの生活について話をする。
 起きるともう昼前。ほうれん草を練りこんだ緑色のタリアテッレにトマトソースをあえて二人で食べる。つわりはひどくないけど、食欲はやっぱりあまりないようだ。

 ピソを出て海のそばまで散歩する。途中で国際電話用の六ユーロのテレホンカードを買って、海の近くの公衆電話からユリさんの実家に電話をかける。大まかな説明は彼女からすでにされていて、今日僕は初めて電話であいさつをする。
「そう、こないだ言ってたヒトシさん。うん、たぶん夏か秋くらいには一時帰国できると思うけど。じゃ、かわるね」
 ユリさんから受話器を受け取る。ビーチサンダルに水着の観光客が僕たちの前を通り過ぎる。今、日本は夜の十時過ぎだ。
「はじめまして。ユリの母です。ユリから話はうかがってます」
 落ち着いた静かな声だ。
 僕は自己紹介をした後、子供ができて結婚を許してほしいと話をする。ユリさんのお母さんは子供ができた以上は反対のしようがないということ、実際に会わなければ信用しようがないということを静かに僕に言う。
 僕は今後スペインで暮らしていこうと考えていること、夏か秋ごろには一度日本に帰って結婚の手続きをしたり、両家の家族にあいさつをしたいと考えていること、またビザや仕事のことなどを一通り説明する。
 たぶん全部すでにユリさんから聞いて知っていたんだろう。電話での会話はあっけなく終わって、ユリさんに受話器を返す。たった今の僕の緊張したやり取りとはうって変わって、ごく普通の軽い日常会話を少ししたあと、彼女は電話を切る。
 子供ができたという報告をしたときお母さんは喜んでいたという話を、ユリさんからすでに聞いていたのであまり緊張せずにすんだけど、彼女に受話器を返してから背中いっぱいに汗をかいていることに気づいた。

 僕たちはそのまま海沿いを歩いて、防波堤の岩の上で海を眺める。きれいにすんだ浅い海の岩の上には、小さなウニやカニやイソギンチャクがいるのが見える。冷たい水に足をつけて波の感触を感じる。寝ころがって太陽の光に目を細めて雲が流れていくのを眺める。水温は少し冷たいが天気がいいと十分泳げる。
 僕たちはレモンアイスを買って食べて、冗談を言いあいながら歩いてピソに帰った。

2004年6月1日(火)

 街には少しずつ観光客が増え、雰囲気はすっかり夏になった。ホテルのレストランにも少しずつお客さんが入るようになりつつある。
 子供ができて結婚しようと考えていることを大阪の両親に伝えると、大変喜んでくれた。
 たまにカタオカのミカさんに電話をしてむこうの様子を尋ねる。ホルヘも「いつでも戻ってこい」と言ってくれているらしい。バルセロナに戻るのも選択肢の一つに考えておく。

 昨日の夜もマリアはあいかわらず機嫌が悪く、調理場に下りてくるたびにヒステリックな叫び声をあげる。料理が遅いといってどなり、僕が用意していたギョーザのたれが少ないといってどなる。
「ソースがこれっぽっちで足りるわけないだろ。妊娠してんのはお前じゃなくって彼女だろ。寝ぼけてんのか、少しは考えろ」
 そうどなって、しょうゆの小皿に用意していたギョーザのたれをみそ汁のお碗に移し変えて、なみなみと注ぎ足して激怒しながら客席に持っていく。
 この先もこれが続くんなら、とてもやっていけそうな気がしない。

 朝の出勤の途中で、スシバーで働いているシャンハイと会う。一週間分の給料をたった今受け取ったらしい。
「あと三日分残ってるけど、絶対にとってやる。お前も気をつけたほうがいいぞ」
「ああ、そのとおりだな」
 シャンハイはまだ興奮が冷めない様子で僕に言う。
「マリアはプータ(売春婦)だ」
「ああ、そのとおりだ」
 プータは売春婦という意味だけど、ひどく侮蔑する言葉としても使われる。サッカーの試合中の言い争いで口に出したら、レッドカードで退場になるような強い言葉だ。
 僕も最近の彼女の言動には頭にきているので、ただ相槌をうつ。
「あいつは一時間六十ユーロのプータで、オーナーに買われてきたんだ」
「ああ、まったくだ」
 オーナーの第三番目の彼女だって言う噂は聞いたことがあるけど、本当かどうかはわからない。ため息をつきながらシャンハイと別れて僕は職場に出勤する。

 青い空には気持ちよさそうにかもめが飛んでいる。

2004年6月6日(日)

 ユリさんと二人で出かける準備をしていたら、ルームメイトのモニカとイラルギにタリーファ(ジブラルタル海峡の港町)に行かないかと誘われる。もともと僕たちも海に行く予定だったので一緒に出かけることにする。
 イラルギはルシアが出て行ったあとの部屋に住み始めたリオハ出身の二十代後半の女の人、よくしゃべる。モニカの新しいミクラ(ニッサン・マーチ)に四人で乗り込んでマルベージャを出発するが、モニカとイラルギは隙間なくしゃべり続ける。

 タリーファの海を見下ろす小さな公園の横で車をとめる。公園のベンチではおじさんが一人でフラメンコギターを弾いている。僕たちは海へ向かってのんびり坂道を歩き出す。空は曇っているが、雲が風で流れて太陽が顔を出すと、海の色がきれいな青や緑にきらきらと変わる。小さな街の中を散歩して、ボカディージョ(バゲットのサンドイッチ)を食べる。モニカとイラルギはしゃべり続けている。
 車で少し移動して大西洋と地中海の境目にやってくる。風が強い。海を眺めながら砂浜を歩く。泳ぐにはまだ少し風と水が冷たい。モニカとイラルギはよくしゃべる。
 そのあとジブラルタルに行こうとするが、イギリス領なので国境で止められる。スペイン人はIDカードで入国できるけど、日本人はパスポートが必要らしい。
 帰りにサンペドロ郊外のモニカの友達の家に立ち寄って子犬をもらう。名前はヒマワリ。クレヨンしんちゃんの登場人物の名前を、意味も知らないで名づけたらしい。意外なところで日本語の単語と出くわして少し驚く。今日からヒマワリも僕たちのピソで一緒に生活することになった。

 数日前から膨らみ始めたユリさんのおなかは一日ごとに大きくなり、今でははっきりとわかるようになってきた。

2004年6月17日(木)

 朝十時ごろ、ヒマワリにほっぺたをなめられて僕は目を覚ます。
 いつものようにお昼の一時に出勤するが、お店のお客さんは三人だけ。マリアが「焼きそばを麺とソースを別々にしてつくれ」と言ってくる。お客さんになんて言われたのかわからないけど、ざるそばならここのメニューにはない。
「ソースを別にして食べる冷たい麺はここにはないよ」
 僕はざるそばの説明をして、ここのメニューにある焼きそばの説明もするが、それくらいじゃマリアは納得しない。結局彼女は、ゆでただけの焼きそばの麺に、どんぶりに入れたテリヤキのたれをそえて客席に持っていった。どんなやり取りがあったのか知らないが、お客さんが気の毒だ。

 数日前にも彼女はワタナベさんとオーダーの紙の書き方についてけんかをして、二人でステンレスの食器棚をがんがん蹴りながら叫びあっていた。
 ワタナベさんは刺身包丁のみねでまな板を叩き、刃先を彼女に向けて威嚇しながらどなる。彼は以前にも一度バルセロナのレストランで同じことをして、裁判沙汰にもなっているはずだ。それに対してマリアも引かずにどなりかえす。見ているだけで気が滅入る。

 新しくオープンするお店もこれから本格的に準備をはじめるらしいが、日本食レストランではなくアジアレストランになるらしい。
 先週からマリアに鉄板焼きの料理人を探しておいてくれと言われている。派手に鉄板の上でアルコールに火をつけたり、包丁を放り投げたりできる人を探しているらしい。もちろんそんな知り合い僕にはいない。

 また、近くの海沿いにリゾートプールがオープンするらしく、そこにもスシバーができる。話を聞いてきたワタナベさんは興味があるようで、僕にずいぶん詳しく説明をしてくれる。
 休日はシーズンオフにまとめてとって、基本給が九〇〇ユーロ、プラス売り上げの二十パーセントが歩合として従業員に支払われる。ワタナベさんはハイシーズン中の売り上げの試算までしているが、僕は面倒なので生返事をしていたら、話はこれまでの彼の半生になって、「お前も家族を持つんならこのあたりで冒険しなければならない」と言い始める。冗談じゃない。

 先週のマリアの話では、僕の労働許可申請の書類がようやく提出されたらしい。ここの会社のオーナーは書類の提出なんかには行かないので、別の会社のポルテロ(警備員)として申請したという。本当に書類を提出したなら控えがあるはずなので、見せてほしいと頼んでおく。
 ちなみにバルセロナのミカさんは、申請して一年以上たつがまだ許可はおりない。

   

2004年6月25日(金)

 ユリさんは定期的に病院へ行って検査を受けている。今のところ問題なく順調のようだ。出産予定日は来年の一月。
 僕とユリさんはまだ学生ビザなので、ユリさんは一応きちんと学校に通い、僕は入学手続きをしたあと、授業には出席せずに最後の試験だけ受けて学生ビザの延長をしている。マルベージャの公立の語学学校は半年分の学費が四十四ユーロ。僕はビザの更新のためだけに学費を払っているようなものなので、これだけ安いと助かる。
 当分、今の部屋と今の職場で生活することになりそうなので、少しずつ部屋の中を整える。クローゼットの中に棚を取り付けて荷物を整理したり、扇風機などの生活用品をそろえたり。
 とにかく労働許可がなければ、僕は動こうにも動けない。夏になれば新しいお店もオープンするはずで、そうなれば本格的に仕事も始まって状況が変わるんじゃないかと期待しているが、今はもう夏だ。

 今朝は出勤前に語学学校に立ち寄って書類を受け取る。
 街には観光客が増え活気が出ている。あいかわらず天気がいい青い空いっぱいにツバメが飛び交っている。なんだかいろんな物事がうまくいきそうな気がしてくる。

 夜遅くに実家から僕の携帯に電話がかかる。ユリさんの家族にあいさつに行きたいらしい。婚姻手続きの必要書類などについて話をしたあと、ユリさんに電話をかわる。
 僕の父親は初めてユリさんと話をするが、たぶんずっと前から言うことを考えていたんだろう。ユリさんは十五分以上携帯電話に向かってお辞儀をしながら相槌を打ち続けていた。

2004年7月11日(日)

 今日は仕事が休みなので、ユリさんと隣の小さな街まで出かける。
 冬に二度ほど来たときには薄暗いさびれた印象があったけど、夏になるとずいぶん違って見える。スペインでは普通、日曜日に店は全部閉まっているが、ハイシーズンだからかバルが何軒か開いている。住宅地をぬけて海のそばまで来るとプエルト・バヌースのように新しくきれいな別荘地に出た。
 大きな空き地の柵の中でロバが一匹たたずんでいた。餌をあげているおばさんが言うには、捨てロバらしい。警察や市役所に届け出ても何もせずに放って置かれているので、近所のみんなで餌や水をあげている。
 目の荒い針金の柵の間から手を差し入れると、ゆっくりとよってくる。背中をなでるといつまでもじっとしている。普段も日陰のない空き地の炎天下の中でただじっとしている。大きな優しい目にはハエがたかり、たてがみはごわごわと硬い。
「かわいそうだね」
「せめて日陰があればね」

 砂浜に出ると海沿いに歩く。暑くなってくると途中で少し泳いでまた歩く。
 プエルト・バヌースまで来ると、工事中のリゾートプールとホテルのアジアレストランをのぞいてみる。プールはもうすぐオープンできそうだけど、アジアレストランの工事は全く進んでいない。もう七月で夏真っ盛りだというのに。
 タイ料理の明るいファーストフードレストランに入る。春巻きとご飯六・四ユーロ、野菜入りの焼きそば六・九ユーロ、でもあんまりおいしくない。人通りのある明るい通りに面した新しい店内にはそこそこ観光客のお客さんが入っていて、みんな不満げな様子もなく楽しそうに食事をしているのが僕たちには不思議に感じるくらいの味だった。
 カンさんたちのスシバーは日曜日も営業しているようで、みんな元気そうに働いている。あまりお客さんは入っていないらしいけど、こっちのホテルよりはましだろう。

2004年7月19日(月)

 新しくホテルのレストランにウェイターが入った。日本人女性と結婚して日本に住んでいたこともある三十代のスペイン人男性、名前はハビエル。
 彼が来てからマリアはあまり店にこなくなった。

 今日久しぶりにマリアと会ったので、今後のことを聞いてみる。
「新しいアジアレストランはいつごろオープンするの?もう真夏なんだけど」
「知らない。私には何も言えない」
 機嫌は良くなさそうだけど悪くもない。悪かったらもうこれでどなり返されているはずだ。なんだか元気がない。
「結婚の手続きなどで、八月か九月の間に一週間ほど日本に帰ろうと思うんだけど。もしアジアレストランの開店時期がわかれば日程をずらそうと思うんだ」
「そんなことは知らないわ」
 彼女は少しため息をつきながら答える。なんだかそっけないな。それじゃしかたがない、日程はこっちの都合で決めてしまおう。
「マラガの役所へ提出したっていう書類のコピーはまだないの?」
「そんなもの見たってあなたにはなんの役にもたたないわ」
「いや、ただ見て確認したいだけなんだ」
「わかってる。私だって見たい」
 なんだか会話がかみ合わない。夏は会社の事務所も忙しく、なかなかとりあってもらえないらしい。

 街はすっかり夏で、たくさんの観光客でにぎわっている。プエルト・バヌースは普段からメルセデスやジャガーなどの高級車が多いけど、夏になるとポルシェやフェラーリやベントレーなども見かける。でも僕たちのいるホテルのお店には全然お客さんは来ない。
 新しいアジアレストランが開店するのを待っていて、ここはあくまでそれまでのつなぎなんだろうか。お客さんが全く来なくても、会社は今のところなんの動きもない。

 午後の休憩時間に広場のベンチで本を読んでいたらハンに声をかけられる。シャンハイと、もう一人別の中国人と三人でコーヒーを飲んで散歩していたところらしい。彼はユリさんの妊娠のことを知っていて心配してくれる。

2004年7月26日(月)

 朝から保健所に行く。僕の社会保険の住所変更をして、ユリさんの社会保険を新しく発行してもらう。住民票などもつくったし、労働許可以外の書類は大体そろった。結婚の手続きは日本のほうが簡単そうなので、日本に一時帰国したときに婚姻届を出すことにする。
 九月にマラガから日本へ行くチケットももう買っておいた。

 新しく一緒に働くことになったハビエルは、マリアとうまくいっていない。お金の管理がめちゃくちゃだと文句を言っている。土曜日の夕方彼女がお店に来て、レジの鍵を貸してほしいといわれたので、ハビエルが断ったらヒステリックにどなって帰ったらしい。彼女も鍵は持っているはずだから、たまたま忘れたんだろうと彼は言う。
 ホテルの会社の人の話では彼女はクビになって、今かわりの人を探しているそうだ。土曜日に出勤した彼女は倉庫で泣いていたらしい。お金や領収書などの書類は今後マリアに触らせないようにするという。

 ハビエルを通して僕の労働許可の申請について会社に確認してもらう。マリアの話ではもう書類は提出されたらしいけど本当かどうかはわからない。
「上の人に聞いてきたよ。九月まで待てってさ。九月になれば現在スペイン国内で仕事をしている外国人に対して労働許可を正式に発行する法律が適用されるらしいから、それから申請したほうが簡単らしいよ」
 その法律の噂は僕も聞いたことがあるから知っていたけど、時期までは知らなかった。
 やっぱり僕の書類はまだ提出していないようだ。

2004年7月27日(火)

 昨日の夜の話し合いで、今日からお店の営業時間が変わった。夕方五時から夜一時までになった。夜の帰りが遅くなったので、バスで通勤している僕は少し困るけど、お昼の営業がなくなったので、自由な時間は増える。

 夕方マリアがお店に来る。今月の二十一日で労働契約が切れて、新しいお店がオープンするまで休んで待っていてくれと言われたらしい。先月の給料ももらっていず、もうこの会社には戻れないかもしれないと言う。
「ヒトシの労働許可の書類のコピーは会社に要求していたけど、こんな状態じゃ確認することもできないし、約束が守れなくて申し訳ないわね」
「いや、しかたないよ」
 もしかしたら本当に書類の申請をしてくれているのかもと思って待ってはいたけど、かなり疑っていたから別に驚かない。
 でも、タイミングが悪い。九月に僕の学生ビザが切れるのでその延長手続きにまた数か月は時間がかかるし、九月にはマラガ発で日本行きの飛行機のチケットも買ってしまった。年が明けて一月になれば子供が生まれる。そのために僕はこれまでいろんな準備をしてきた。今から転職するすのは大変だ。
 最後に彼女は僕とワタナベさんに、「あなたたちも今後の事を考えておいたほうがいいわよ」と吐きすてるように言って、靴の音を響かせながら帰っていった。

2004年8月12日(木)

 お昼ごろに、僕たちの住んでいるピソのエレベーターの取り付け工事の削岩機の音で僕は目を覚ました。ユリさんは妊婦の体操に出かけていてもういない。僕は顔を洗ったあと、二人分の親子丼とお吸い物を用意する。
 帰ってきたユリさんと一緒に食べながら、またいつものような話になる。九月の日本への一時帰国と入籍の段取り、これからの僕の仕事と労働許可、ユリさんの子育て。
 そしてユリさんは泣き、僕はなぐさめる。
「大丈夫だよ。きっとうまくいくから二人でがんばっていこう」
 根拠も自信も見当たらないけど、ほかに言える言葉が全く思い浮かばない。

 昨日ワタナベさんは痔の手術のために一日仕事を休んでマドリーの病院に行っていた。
 僕が職場に行くと彼はもう出勤して仕込みをはじめている。以前働いていたスシバーの時みたいに、もう戻ってこないんじゃないかと少し思っていたので一応安心する。ハビエルはワタナベさんと顔をあわせるとすぐに「仕事は見つかった?」と日本語で聞く。彼は少ししどろもどろで「ないよ」と答えていた。たぶん手術というのはうそで、どこかで就職活動をしていたんだろう。

 倉庫にあるパソコンを使わせてもらって見ると、学生時代の友人からメールが来ている。この八月にフランスのモンブランにクライミングに行くらしい。僕は日本での生活や学生時代を少し思い出す。
 夜の仕事中、ユリさんとバルセロナ郊外のシッチェスの海に行ったときのことがなぜか鮮明に頭にうかぶ。鼻と目の中間辺りの奥のほうが少しむずむずした。

2004年8月18日(水)

 エレベーターの工事が朝からうるさい。僕たちの部屋の玄関のちょうど横の壁に今、削岩機で穴を開けている。蒸し暑い布団を頭にかぶったままうとうとしていると携帯電話が鳴る。
 朝から病院へ行っていたユリさんからで、お腹の赤ちゃんは男の子らしい。全て順調と聞いて安心する。

 昨日の夜、突然ホテルの地下の調理場から、隣にあるレストランの調理場へ引っ越しをするように言われる。
 そのレストランも経営者はホテルと同じで、普通の地中海料理をだしていたけど閉店したらしい。真夏の稼ぎ時だというのに。
 料理人のホセというスペイン人一人を残して全員いなくなったところに、僕たちが日本食で使う調理道具と食材全てを持って移っていった。ここは調理場も客席も海に面した一階にあってテラス席もあるが、客席は内装も外装も前のレストランのままなので使用せず、調理場だけを使ってホテルの一階の客席と、お昼はビーチのお客さんにも料理を提供することになった。注文が入ったら唯一人のウェイターのハビエルはキッチンまでやってきて、料理ができたら僕たちは店の外に出て彼を呼ぶか携帯電話を鳴らして合図をする。当分の間ホセも僕たちと一緒に仕事をするらしい。
 そんなわけで仕事内容はこれまでと同じだけど、新しい調理場で雰囲気はよくなったような気がする。
 ホセは隣にある同じ系列のイタリアン・レストランにも手伝いにいっているようで、むこうからもこちらにいろんな人があいさつをしていく。八月だというのにそんなに忙しそうでもなく、みんなのんびりと働いている。
 タバコを吸いに調理場の外に顔を出すと、少しずつ色の変わる夕焼けに潮風が気持ちいい。日が沈むとかすかに肌寒い。ほんの少しだけ、もう秋のにおいがする。

 マリアがこの店に来てまずはじめにやったことは、それまでいた中国人たちを全員クビにすること。僕とワタナベさんは彼女に引っ張ってこられて、今そのマリアはクビになってもういない。
 ハビエルは近日中に別の店に移るらしい。工事中のアジアレストランは最近また少しずつ工事が進み始めたようで、来月中にはオープンするんじゃないかといううわさを聞いた。

2004年8月24日(火)

 前々からバルセロナのカタオカに戻ろうかと僕は考えていて、ミカさんと連絡を取っていろいろ話を聞いている。彼女も無事労働許可がおりたらしい。仕事のことを聞いてみるために、今朝出勤の途中でカタオカのホルヘに直接電話をかける。
「バルセロナに帰ってくるのか? 仕事なら心配するな。ここで働けばいい」
「ありがとうございます。九月中は日本に一時帰国したり、書類手続きがあったり忙しいので、十月からよろしくお願いします」
「わかった、わかった。心配するな」
 あっけなくバルセロナでの仕事が内定した。心配するなといわれても、まだ心配だけど、今の状態よりはましだろう。九月にバルセロナに引っ越すことに決定する。迷ったけど、今すぐ動かなければもう来年の春ごろまで動けない。

 さっそくハビエルに今月中に仕事をやめるという話をして上司に伝えてもらい、夜仕事が終わってから直接話をしに行く。
 オーナーは、ヨットハーバーのすぐそばにある同じ系列のレストランの一番奥の客席でノートパソコンを開いていた。ハビエルに連れられた僕は今月中に仕事をやめたいということと、終わればすぐに給料を受け取りたいということを伝え、その場で簡単に退社が決まった。

2004年8月30日(月)

 昨日で無事仕事が終わった。
 ビーチのお客さんにも料理を出すようになってからお昼の間は忙しくなり、特にお寿司がよく出るようになった。太陽のてりつける熱い砂浜の上で、てんぷらなんか誰もたのまないだろう。
 ここ数日間のうちに僕はマルベージャで出会った人たちや、バルセロナの知り合いに連絡をして、九月中にバルセロナに帰ることになったということを伝える。
 モニカにも事情を話し、ダンボール数個だけど引越しの手配をする。

 今日はマルベージャで知り合った日本人のお家で、僕とユリさんはお昼をご馳走になる。奥さんはスペイン人で娘さんは九歳。
 ユリさんが妊娠して、仕事のためにバルセロナに帰るということを僕は説明する。こっちの小学校教育などについての話を聞いて、犬と一緒に庭で遊んでいる女の子を横目で見ながら、もうすぐ自分たちにも子供が生まれるんだなということをあらためて実感する。

 そのあと、ユリさんの知り合いの日本人女性とコーヒーを飲む。イギリス人のだんなさんの仕事の都合でこっちで住んでいて、あと一年くらいはスペインにいるらしい。

 ショッピングセンターのスシバーにあいさつに行く。平日にしてはまずまず忙しそうだ。カンさんと会って、ホテルの仕事をやめてバルセロナのカタオカに戻るという話をする。ハンやシャンハイと話をしてみんなで写真を撮る。ハンの彼女もアリカンテからやってきて一緒に働いている。
 スシバーの経営は順調で、この冬の間に隣のイタリアンカフェをつぶして全部スシバーのお座敷や鉄板焼きカウンターに改装する予定らしい。カンさんはマルベージャで二LDKのピソも買った。ひと夏でえらい変わりようだ。僕もうれしく思う。

 最後にホテルのレストランに行く。ハビエルやホセにユリさんを紹介する。
 昨日偶然仕事を探しに来たマジョルカ出身のスペイン人は、早速今日から試用期間として働き始めている。
 でもみんな特にやることもなく手持ち無沙汰のようだ。一応僕のあとにワタナベさんと一緒に調理場で働くことになっているホセはいすに座ってなんだか考え込んでいて、ワタナベさんは客席でハビエルと立ち話をしている。九月になれば少しずつ観光客も減って、新しいお店ができるまではこの調子だろう。

 一日でたくさんの人と会ったけど、僕もユリさんも人見知りで友達が少ないので、一年間暮らしていたのにもうあいさつする人が思い当たらなくなった。日の沈んだプエエルト・バヌースからバスに乗ってユリさんと家に帰る。

2004年9月3日(金)

 おととい給料を受け取り、昨日マルベージャのバスターミナルからバルセロナ行きの長距離バスに乗った。
 午前中にバスターミナルへチケットだけ買いに行くが、窓口で一時間待てといわれる。一時間待つがチケットは買えず一度家に帰る。シャワーを浴びて、中国製のインスタントラーメンを食べて、荷物をまとめて、ユリさんとヒマワリと一緒にもう一度バスターミナルへ行く。午後二時に窓口で三時半まで待てと言われる。三時半にまた並ぶと、午後八時まで待てと言われる。
 隣のスーパーでパンとオイルサーディンの缶詰を買ってユリさんと階段に座って食べ、丘の上のバスターミナルからマルベージャの街を見下ろす。小さな街のいたるところでマンション建設のクレーンが飛び出していて、ゆっくりと旋回している。ヒマワリと遊んだりユリさんと話をしながら、結局午後八時まで一日中待って、ようやくバスに乗ることができた。
 バスの窓からユリさんに手を振る。彼女も笑顔で手を振る。ヒマワリはまったくこちらに気がつかず、歩道の匂いをかぎながら尻尾を振り回してうろうろしている。
 少しずつ日が傾いて、空と海がピンクや紫に変わっていく風景をバスの窓から眺める。
 つぎこの街に来るのは一体いつだろう。

 今日のお昼ごろバルセロナに着く。ほんの一年前に半年ほど住んでいただけなのに、バスの窓から見える景色が懐かしい。
 まずカタオカに行き荷物を置かせてもらう。ホルヘやみんなとあいさつをしたらすぐ、お店を出て早速部屋探しを始める。

 マルベージャで買った日本行きの飛行機のチケットはマラガ発をバルセロナ発に変更できたけど、九月十六日の木曜日出発なのでそれまでに僕はユリさんと生まれてくる子供と三人で数年間暮らすことのできる部屋を見つけなければならない。そしてすぐにユリさんをバルセロナに呼び寄せる。
 今日はもう金曜日なので実質来週の一週間で部屋を探さなければならない。予算は家賃約五〇〇ユーロ。子供が生まれるのでピソ(アパート)をシェアするのではなく、小さくてもいいので僕たちだけで住めるアパートを見つけたい。そのためには大家さんと賃貸契約を結ばなければならず、現在無職で学生ビザしかもっていない僕には難しいだろう。

 一日歩き回ったあと、カタオカに戻り荷物を受け取って、そこでウェイトレスとして働いているミカさんに部屋の鍵を借りる。彼女はスペイン人の彼と二人で住んでいるが、小さな部屋が開いているので、今日からピソが見つかるまでの間お世話になる。
 夜ユリさんに電話をかける。
「どう? バルセロナは」
「きれいな街だね、住んでるときは全然思わなかったけど。地下鉄もちゃんと時間どうりに来るし。部屋探し始めてるけどどんな部屋がいい?」
「窓が外に向いている部屋がいいね」
 日本でそんなのは当たり前のことだけど、インテリオール(建物の内側向きの部屋)だと窓はあっても風が通るだけで日の光は入ってこない。
「あと、三階以上だとエレベーターがいるよね。ベビーカーを押して買い物に行ったりしなきゃならないし。」
 スペインでは古い建物だと、階数にかかわらずエレベーターがついていないところがまだたくさんある。

 早く住む場所を見つけてユリさんを安心させてあげたい。
 たった一日だけなのにマルベージャでの生活が遠い昔のように感じる。

2004年9月9日(木)

 僕は部屋探しを続けている。毎日十件以上電話して、数件のピソを実際に見に行く。土日はいろんな地区を歩いて、自分の目で街の雰囲気を見てまわる。治安がよさそうかどうか、近くに広い公園やスーパーがあるか、街の中心地へのアクセス、僕がこれから仕事をする店までの通勤時間。
 探せば五〇〇ユーロくらいで一応一LDKくらいの部屋はある。僕たち二人と赤ん坊なら広さはそれで十分なんだけど、部屋を借りるためにはまず身分証明書と給料明細を要求される。「十月からきちんと仕事をすることが決まっています」と説明しても、学生ビザで現在無職と言うとたいてい書類審査で落とされて相手にしてもらえない。僕は家賃の上限を五五〇ユーロに設定しなおす。
 来週の木曜日には二人でバルセロナから日本に出発する。月曜日にはマルベージャから荷物を送ってもらい、火曜日にはユリさんがバルセロナに来て、水曜日にはこれから住む部屋の整理と日本行きの準備。土曜日と日曜日は不動産屋は休みなので、明日の金曜日には部屋を決めて契約しなければならない。
 もし無理ならまた二人部屋をシェアしてでも住む場所を見つけないと。

 今日はお昼に約束をしていた物件を見に行くが、指定の場所と時間に誰もこない。不動産屋に電話しても誰も出ない。しかたがない。時間がないので、気にせず次の物件を見に行く。
 二件目は街の中心地にも近いバレンシア通りで、七十平方メートル三〇〇ユーロ。安い。案内されて扉の中に入ると、窓も部屋の仕切りも何もない裸電球が一つだけぶら下がったコンクリートの箱。隅っこに細いらせん階段が一つあって、階段を上にあがると同じように何もないコンクリートの箱。片隅に小さなシャワーとトイレと水道があって、一つだけある窓を開けても建物の中の薄暗い玄関ロビー。太陽の光も入らないし風も通らない。ユリさんが落ち着いて子育てする環境にはとてもなりそうにない。
 昨日見たポブレ・ノウの物件は二LDKだけど、うち一部屋は大家さんの事務所らしい。バスルームは湯船のない小さなシャワーだけで、家賃が五〇〇ユーロ。自分の家の中に他人の職場があるなんて困る。
 もう一件はレセップス広場のそばで一LDK、家賃は五〇〇ユーロ。狭いけど周りの環境もよく、部屋も比較的きれいだ。気に入った。ぜひ住みたいとその場で言うが、ほかにも興味を持っている人がいて誰に貸すかは大家さんが決めるらしい。こうなると外国人で給料明細のない僕に勝ち目はない。一応カタオカのホルヘに、十月以降の就職が決まっていますという手紙を書いてもらうことにする。

 部屋探しの合間に、バルセロナ大学の外国人向けスペイン語コースの入学手続きをして、市役所で結婚手続きの書類をもらい、学生ビザ延長手続きと労働許可の申請手続きの書類をもらいにいく。バルセロナ大学の一年間の学費は一二〇〇ユーロ。

 海外で暮らすということは、僕にとって全く自然で迷う必要のないことなのだけれども、ユリさんとこれから生まれてくる子供にとって本当に幸せなことなのだろうかと、もちろん答えなんかすぐには見つかりようないんだろうが、そんな考えが頭から離れない。
 おそらく原因は居候をしながら部屋探しをしている現状と、最近のバルセロナの曇り空のせいだろう。
 春から夏にかけてのアンダルシアは明るい。人も街ものんびりとした空気の中で、きっと何とかなるだろうと僕は思っていた。ここでも部屋が見つかり、ユリさんと新しい生活がはじまれば、今見ている風景も変わっていくんだろう。マルベージャでそうだったように。

2004年9月13日(月)

 毎日朝八時ごろ起きて、朝食と昼食はビスケットやパンをかじりながら一日中歩きまわる。金曜日までに決めたいと思っていた部屋はまだ決まらず、もう時間がない。

 今日は新しい物件を探したりはせずに、これまで見てきた物件を第一希望から順番に連絡して状況を確認していく。とはいっても手持ちのカードは三枚だけで、最初の二件は電話して問い合わせたところもう別の人に決まってしまっていた。
 最後の一件はレセップス広場のそばの家賃五五〇ユーロ、電話にでたおばさんは「部屋はまだ空いているが給料明細が無いと貸せない」と言う。部屋を見に行ったときはそんなこと言っていなかったのに。給料明細がないのであれば一年分の家賃を前払いしなければならないらしい。急に言うことを変えてくるのはなんだか気に入らないが、とにかく時間がない。遅かれ早かれ払う合計金額が変わらないのならと、条件をのむことにする。

 不動産事務所に行って契約書を作ってもらう。一年分の家賃六六〇〇ユーロに敷金や手数料で合計八七〇〇ユーロ。マルベージャで一年間働いて貯金してきた一〇〇万円近くのお金がこれで全部消えた。明日お金を払って契約書にサインをする。
 不動産屋を出てすぐにユリさんに電話する。これから住むピソの住所を彼女に伝え、荷物を送ってもらうことにする。

2004年9月14日(火)

 朝から荷物をまとめて、これまでお世話になったミカさんのピソを出る。不動産屋に行って、用意してきたお金を渡して契約書にサインをする。厚い契約書にはお金のことが細かく書いてあり、辞書がなければとても読めない。ざっと目を通して、三部ある契約書に一枚ずつ何十回ものサインをして部屋の鍵を受け取る。
 スペインで引越しはこれでもう四回目だけど、今回が一番大変だった。

 グエル公園(ガウディが設計した公園)のすぐそばのレセップス広場から少し歩いた路地にあるそのピソは築三十年くらいの一LDKで、何か月もの間誰も住んでいなかったらしく、ほこりがたまっていてかなり汚れている。家具つきの賃貸契約なので古いベッドやソファーやテーブルなどの家具と、洗濯機と冷蔵庫が残されているが、サロン(リビング)の棚には虫に食われた小さな穴がたくさん開き、その足元には細かいおがくずがたまっている。洗濯機は壊れていてシャワーもお湯が出ない。午後になって不動産屋の人がシーツを持ってきてくれたので、調子の悪いところは全部直してもらうよう彼に話しておく。

 夕方プラット空港にユリさんを迎えに行く。飛行機は少し遅れたが、お腹の大きなユリさんはスーツケースを押しながらほっぺたを赤くして無事到着した。
 手配した荷物は引き取りに来るのが間に合わず、イラルギに送ってもらうことになったらしい。明日の午前中にはバルセロナにつくはずだ。

 小さなアパートにはまだ何もなく、全く落ち着かないけど、これから二人で暮らせる場所がやっと見つかった。近くには緑の多い公園があってグエル公園にも近い。治安もよさそうでグラシア地区(小さなお店のたくさんある若者の多い地区)にも歩いていける。サロンと寝室には細い通りに向かって大きな窓があり、景色はそんなによくないけれど明るく日の光が差す。
 部屋に荷物を置いた僕たちは、近くのバルにご飯を食べに行く。一人四・八ユーロの安い定食を食べながら、今日はユリさんの誕生日だったということを思い出す。そういえば去年はラバル地区でカレーを食べたっけ。
 そして僕たちはこれからの生活について話をしながら、のんびりと夜道を歩いて家に帰った。

2004年9月16日(木)

 昨日は部屋のオーナーがカーテンを持ってきて、虫に食い荒らされた家具を運び出した。運送屋がダンボール箱二つをマルベージャから届けてくれた。配管修理屋が台所の水道とバスルームのシャワーと水洗トイレを修理しに来た。
 僕たちは汚れた部屋を掃除して、そんなにたくさんはない荷物を整理した。数日ぶりにシャワーを浴びると、やっと我が家にいるという気分になった。

 朝七時半に目覚まし時計が鳴る。出発の準備は何もしていない。僕は必要なものをあわててザックに詰め込んでいく。ユリさんは昨日のうちにスーツケースをまとめていて、今はシャワーを浴びている。パンと水を手荷物の中に放り込んで、朝食をとらずに二人で部屋を出る。

 二週間前まで僕はマルベージャにいたんだな。明日の今頃は日本だろう。部屋探しと引越しで忙しかったせいか、日本に行くということがどうもまだピンとこない。

2004年9月27日(月)

 十七日の朝、成田空港に着いた僕たちは栃木県のユリさんの実家に行く。日本の風景や周りの人たちの日本語や、目に映る全てが新鮮で懐かしい。

 僕の両親も大阪から来て、両家の家族がそろってお食事会をする。結婚式などは特にしないので、セレモニー的なものはこれで終わり。これからの生活について聞かれた僕は、今後もスペインで暮らしていくつもりだということをあらためて説明した。ユリさんのお母さんは泣いて、ユリさんも泣いた。今、お母さんは仕事をしながら癌の妹さんのお世話をしている。
 栃木ではお墓参りに行ったり、親戚のうちにあいさつに行ったり、妊婦服などを買い物したりして過ごす。
 僕とユリさんは妊娠や出産などについての知識が全くなく、スペインの病院で言われること以外何の情報源もなかったので、ユリさんは大きくなったお腹を少し大きめのシャツの下からはみ出して生活していた。実際スペインではそういう妊婦さんを普通に見かけるし、そういうものだと思っていた。腹帯というものの存在も知らなかったし、妊婦服を買うという発想も余裕も僕には全くなかった。

 二十日に僕は一足先に大阪に行く。二十二日にユリさんも栃木から着く。
 大阪でもお墓参りに行ったり、親戚のうちにあいさつに行ったり、子供服などを買い物したり、婚姻届を出したりして過ごす。
 そのあと、一日だけ時間が取れたのでユリさんと二人で日帰りで京都まで足をのばす。毎日あいさつばかりなので、この日はリラックスしてすごす。

 今日は朝からみんなで車に乗って関西空港へ。僕の両親と弟の嫁さんとその二歳の長男と、みんなで見送りにきてくれる。
 十日間の日本滞在が一瞬の風みたいに通り過ぎた。ふと気がつけば僕も日本の空気になれていて、今度はスペインに帰るということがピンとこなくなっている。

2004年10月13日(水)

 日本から帰ってきて少しずつ部屋を整理する。
 安い電子レンジやCDラジカセを買って、ほうきや鍋や調味料など少しずつ買いそろえていく。棚やいすを道端のゴミ捨て場から拾ってくる。家具類を拾ってきて使うのは、もちろん人にもよるけど、スペインではそんなにおかしなことでもない。貧乏な僕は自然と、近所のゴミ捨て場をたえず注意するようになっている。
 バルセロナの市役所で住民登録をして、健康保険をマルベージャから移し、バルセロナ大学のスペイン語の授業も始まった。ユリさんもマルベージャにいる間休学していた私立の語学学校に復学した。
 カタオカのホルヘに電話して十月に始まる予定だった仕事のことを聞くと、学生ビザで働くための許可申請をこれからするので仕事ができるのはその許可がおりてからになるらしい。困ったな、まだ何か月もかかりそうだ。

 今日ユリさんは朝から学校の授業に行き、僕は学生ビザの延長の書類を提出しに行く。スペインに来て一年半になるけど、これが三回目の延長手続きだ。十一時五十分の予約を取っていたが少し早めに着いておく。覚悟していたほどは待たされずに、書類も無事受理される。
 提出するのは毎回ほぼ同じ書類なので、同じように受理されるはずなんだけど、運が悪いと何がおきるか本当にわからない。ビザの書類手続きは手元にカードを受け取るまでひやひやする。
 そのあとバルセロナ日本領事館で戸籍や出生届などの書類について少し質問してから家に帰る。

 夜ホルヘから電話が入り、僕の名前の正しいスペルを教えてくれと言われる。学生ビザや住民票のコピーを全部渡しているはずなのに、なんで今さら名前なんか聞いてくるんだと思うが、一応きちんと手続きをしてくれているということなんだろう。
 晩ご飯にクリームシチューを作ってユリさんと一緒に食べる。出産予定日は一月三日、お腹はますます大きくなっている。

2004年10月29日(金)

 フランスのマルセイユに住んで七年になるユリさんの友達が、フランス人の彼とバルセロナに遊びに来た。ユリさんと同級生なので二十歳くらいの時にフランスに渡ったことになる。ユリさんがスペインに語学留学に来たのは彼女の影響もあったようだ。
 昨日はゴティック地区(旧市街)で待ち合わせをして、僕とユリさんとその友達カップルと四人で晩ご飯を食べに行った。

 今日は家に遊びに来て、みんなでお昼ご飯を食べる。乾麺のうどんをゆでて鶏肉や野菜をたくさん入れる。フランスの話をいろいろ聞かせてもらい、これから生まれてくる赤ん坊に子供服やぬいぐるみのプレゼントやお土産をたくさんもらう。
 一度別れた後、夜エスパーニャ広場で待ち合わせをして、ライトアップされて音楽に合わせて変化する噴水ショーを見る。博物館へと続く階段を上までのぼり、バルセロナの夜景を眺める。少し肌寒い。もう風の匂いはすっかり冬のようだ。
 その後、レイアール広場にあるライブハウスでフラメンコを見て、バルで少しビールを飲んで別れる。
 時間はあるけど、お金も仕事も心の余裕もないので、こういう機会でもないと普段全く遊びに出かけたりしない。旅行したり遊びに出かけたりしながら、普通に生活ができるように早くなれればいいなと思う。

2004年10月31日(日)

 昨日の朝食の後、何もいわずにユリさんが静かに泣き始めた。僕は牛乳を温めて少し砂糖を入れて彼女に渡す。
 泣きやんだユリさんは牛乳を一口飲んで、話ができるようになるがすぐにまた泣き出す。部屋のすみでしゃがみこみ泣きじゃくる。手足を振り回し床をけり、もがきながら嗚咽する。壁を叩き自分の顔をかきむしり苦しそうに息を切らせながら泣き続ける。
 僕は泣いている彼女をベッドに連れて行き、背中をさすりながら落ち着くのを待つ。海に行きたいと言うので、フランスから旅行に来ている友達と美術館へ行く予定だったのをキャンセルして、ボカディージョ(バゲットのサンドイッチ)を持って二人で海へ行く。
 話をしながら風が強い砂浜を散歩する。
 驚いたことに水着で泳いでいる人が何人かいた。

 彼女の泣いた理由は、僕の冷たい態度だ。ユリさんは僕に何か注意されると些細なことでもいつもすぐに泣く。僕の言い方が悪かったんだろうと思い、きつい言い方やきつく受け取れるような態度はとらないように心がけている。原因はたぶん彼女自身の中にもあると思う。

 これまで僕は一人で自分のやりたいことをして生活してきた。でも結婚すると当然家族のことを考えなければならなくなる。僕とユリさんとは知り合ってまだ一年半しかたっていず、お互いのことをたくさん知っているわけではない。意見や考え方が食い違っても、家族であるということを尊重し二人で歩み寄り協力し合っていかなければならない。日本への一時帰国、バルセロナへの引越し、これからの就職と労働許可手続き、今の僕の生活は全てこれからの家族のためのものだと思っているし、そのために努力もしている。
 そしてユリさんにも理解して、協力してほしいと思っている。
 でも、「無理なものは無理だし、できないことはできない。我慢してまで一緒にいる必要はない」と彼女は言う。

 砂浜のコンクリートの段差に座って夕焼けを見た。日が沈むと肌寒い。ランブラス通りを歩いてバーガーキングに入りぽつりぽつりと話を続ける。外には雨が降り始める。
 家に帰るころには十二時を過ぎていた。

 そして今朝また昨日の話しの続きを少しする。
 昨日の夜一晩考えた僕の意見を言う。共同生活をする上で、ユリさんの考え方には子供っぽいところがあるということ。そして僕は彼女にたいして無意識のうちにいろんなものを求めていたが、それは間違っていたということ。
 ユリさんは泣きながらサンダルのまま部屋を飛び出した。突然のことなので一瞬戸惑うが、お腹が大きいことを思い出し、あわてて後を追って家を出るがもう見つからなかった。携帯電話に電話をするが電源が切ってあってつながらない。

 彼女の泣く原因は彼女の中にあるんじゃないかと思っていた。そしてそれを解決するための手伝いが僕にできればと思っていた。そんな僕の態度がどれだけ彼女を傷つけて苦しめてきたことだろうか。
 一時間ほどしてユリさんは帰ってくる。何も言わずに台所の後片付けを始める。熱いマンサニージャ(カモミールティー)にはちみつを入れて二人で無言のまま飲む。いすに座ったユリさんがまん丸い大きなお腹に両手をあてて、小さな声で言う。
 「今、動いてる」
 僕もそっと手を触れてみる。
 「うん。動いてる」
 彼女はまた少し泣く。

 フランスから来ているユリさんの友達と一緒に晩ご飯を食べる予定だったので、二人で準備をする。いなりずし、鶏のから揚げ、ポテトサラダ、そら豆と野菜の炒め物。料理している間にユリさんは少しずつ普段どおりになり、笑顔も見られるようになる。僕ももう話を蒸し返さないように注意する。
 四人でご飯を食べてトゥロン(アーモンドを固めたお菓子)とチョリソ(サラミ)をお土産に渡す。
 彼らは明日の朝、バスでフランスに帰る。お似合いのカップルだなと思った。

2004年11月14日(日)

 家の目の前のゴミ捨て場で電気ストーブを捨てている人を窓から見かけたので、すぐにおりて拾ってきた。折りたたみ式のベビーベッドも拾ってきて掃除する。中古のベビーカーを買ってきて、オムツやベビー石鹸や哺乳ビンなどもそろえておく。
 マルベージャにいたころ一五〇〇〇ユーロあった貯金が一年分の家賃と学費と日本への旅費で残高五〇〇〇ユーロになる。僕とユリさんの手元に現金が合計一〇〇〇ユーロほどあったが、バルセロナでの新しい生活のために必要なものをそろえながら生活していると一か月半でなくなってしまった。先週さらに一〇〇〇ユーロを生活費のために銀行でおろしてくるが、これで当分やりくりしようと思う。

 マルベージャのワタナベさんから電話がかかる。新しいお店がもうすぐオープンするらしい。日本人と韓国人のハーフの料理人が新しく入って寿司をやっていて、ワタナベさんは火を使う調理場で働いているそうだ。元回転寿司屋のワタナベさんには難しいだろう。
 短期間でもいいから僕に戻ってきてくれないかという話で、正直お金はないし仕事はしたいけど、行ったらたぶんまたややこしい話に巻き込まれるだろうから断ることにする。

 街は少しずつクリスマスの飾り付けがはじまった。

2004年11月26日(金)

 ユリさんは朝からスペイン語の授業に行く。毎日一日中二人で家に閉じこもって、スペイン語の勉強をしたり、編み物をしたりして静かにひっそりと暮らしている。僕もユリさんも、それぞれ帽子を二つずつ編み上げた。
 九月中は日本に一時帰国していたし、十月中は新しい生活のために身の回りの整理をしていたので、今のように静かに落ち着いてからまだ一か月しかたっていないが、なぜだか何か月も前からずっとこんな生活をしているような気がする。

 先日学生ビザの延長手続きに行ったときに役所で知り合った日本人の女の人が、知り合いのスペイン人の男の人と一緒に家に遊びに来る。二人とも二十代前半くらい。
 彼女は日本で学生ビザをとってスペインに来たのに、その書類をバルセロナで提出しようとしたところ、受け付けてもらえなかったという。語学学校が学生ビザをとるための条件を満たしていなかったらしい。だとしたら、日本のスペイン大使館で許可が出たのがおかしい。日本で申請したときに受け付けてもらえなかったら、別の語学学校でビザの手続きをやり直すこともできたけど、今もうスペインで授業を受けている。これから学校を変えるのは無理だし、変えたとしてもあらためて学生ビザの手続きをするためにはもう一度日本に戻って、日本のスペイン大使館で申請しなおさなければならない。
 明らかに事務処理のミスなので、法律事務所に相談すれば何とかなるかもしれないが、スペイン語を勉強しに来てまだ数か月、語学力もお金もないし、一年間の滞在予定の期間を書類手続きだけで過ごすことになりかねない。彼女は結局三か月で日本に帰ることにした。いつ誰の身に降りかかってもおかしくないだけに、気の毒だ。

 僕とユリさんと彼ら二人と四人で日本茶を飲む。スペイン人のダニくんは日本語を勉強してもう四年になり、日常会話はほぼ問題なく話せる。日本が本当に大好きらしい。

2004年12月5日(日)

 今日はユリさんの友達が集まって僕たちの結婚のお祝いをしてくれる。
 僕とユリさんはご飯の準備をする。ミートソースのパスタとシーフードのパスタ、マルゲリータのピザとアンチョビとオリーブのピザ、シーザーサラダ。

 みんな語学留学でバルセロナに来て、ユリさんと同じ学校でスペイン語を勉強していた人たちで、年齢は二十代なかばから三十歳くらい。それぞれワイングラスやお花などをプレゼントに持ってきてくれる。
 エイコさんはスペイン語の勉強を続けながら、知り合いの紹介で最近週三日の事務仕事を始めたらしい。スペインで仕事をしたいというのが彼女の目標だったので、こっちでの生活は順調のようだ。
 そのほか三人の日本人が来てくれるが、一人はスペイン語の勉強をした後デザインの学校に通っていた女の人で、今年の年末には日本に帰る。僕が語学学校で知り合った人たちも、スペインに来て二年近くがたって、ほとんどが日本に帰国してしまった。言葉がある程度わかるようになり、こちらでの生活が楽しくなってきたところなので、たいてい帰国するのが残念そうだ。
 もう一人はスペイン語の勉強の後、今年の秋からカバ(カタルーニャの発砲ワイン)やワインの学校に通い始めている男の人。テストやプリントは全てカタルーニャ語らしい。
 あと、スペインに来てまだ数か月で、今スペイン語を勉強している女の人。彼女はインターンシップで建築の仕事をする予定だ。
 みんなそれぞれがんばっているようで、僕も元気をもらう。

2004年12月16日(木)

 結婚祝いの食事会のときにエイコさんが持ってきてくれた鉢植の花はほとんどがまだつぼみで、小さなイモムシが一匹ついていた。見ていると葉っぱを食べずに小さな赤い花のつぼみばかりを食べている。つまんで葉っぱの上にのせても食べようとしない。
 五リットルのペットボトルを半分に切ったプラスチックの箱の中に、葉っぱやキャベツと一緒に入れてあげると、キャベツは気に入ったようでずっと食べ続けている。

 僕たちは昨日の晩ご飯の残りのトマトソース煮にショートパスタを入れてお昼ご飯にする。
 午後七時ごろエバという人の家に遊びに行く。マルベージャでいたときに知り合った日本人に、「バルセロナに行くなら知り合いがいるので紹介してあげる」といわれて連絡先を聞いていた人で、奥さんがスペイン人で名前はエバ、だんなさんが日本人で名前はケンジさん、二人ともまだ二十代で、ハーフの娘さんが三歳、名前はアリシア。
 僕たちが着いたときには、近所に住んでいる日本人女性のカナさんが子供たちをつれて遊びに来ていた。上の子が三歳の男の子で、下の子が二か月の女の子、二人のお父さんはスペイン人。
 晩ご飯をご馳走になって出産や子育ての話をいろいろ聞く。
 三歳の子供が二人もいるとさすがににぎやかだ。少しもじっとしていない。二か月の小さな赤ん坊は泣いてミルクをせがんでいる。大変そうだけど、楽しそう。僕たちの家にももうすぐこんなのが生まれるんだな。
 夜十一時ごろまでのんびりと話をして、もう使わなくなったベビー服やおもちゃなどたくさんもらってメトロ(地下鉄)に乗って帰る。

 今朝ユリさんの尿の中に少し血のようなものが混じっていたらしいけど、特に体調も悪くないようなのでエバのピソまで三十分ほどかけて歩いて行った。
 夜、部屋に戻ってしばらくするとユリさんの大きなお腹が張って痛み出してくる。ソファーで横になり、様子を見る。
 痛みは少しずつ周期的に強くなる。陣痛がはじまった。朝の血は出産前のおしるしだったようだ。午前三時ごろタクシーを呼ぶために電話をかけるが、今日はタクシーの運転手のストライキらしく、どこも断られる。しかたがないので救急車に来てもらい状況を説明して、すでにまとめてあった荷物を持ってカンプ・ノウ(バルサのホームスタジアム)のそばの病院へ向かう。
 救急車の運転手さんは、なれた様子で僕たちを気づかってくれた。

2004年12月17日(金)

 病院でユリさんは担架に乗せられたまま小さなベッドのある個室に通されて、手術用の薄い浴衣のような衣服に着替えさせられる。僕は社会保険の紙を持って受付に行き、入院の手続きをする。
 午前五時過ぎにユリさんは別の個室に通される。お腹の心拍をとったりしながら点滴をうつ。定期的に陣痛がくる。救急車に乗ったときに気分が悪くなったようで胃の中のものを全部吐く。棒状の器具を差し込んで破水する。

 一時間ほどしてユリさんだけ次の部屋へ移っていき、僕は待合室へ戻る。七時ごろ呼ばれて中に入る。防菌用の緑色のガウンを服の上から着て靴のカバーと帽子をつけて中に入ると、分娩室の中では三人くらいの看護師さんたちがユリさんの周りで出産の準備をしている。ユリさんはもう半身麻酔を受けていて、感覚があまりないらしい。
 出勤時間だからか、少しずつ看護師さんやお医者さんがあいさつしながら増えてくる。ユリさんはいわれるがままに、いきんで、休んでを繰り返す。僕は横で手を握って声をかけながら一緒に呼吸を合わせる。
 何度目かに、りきんだとき、ゆっくりと頭が出てきて顔が出る。赤ん坊は「おんぎゃ」と短く一声だけあげて静かになる。看護師さんが頭をくるりと回して、何人かで引っ張り出そうとするがうまく出ない。とっさに女医さんが、ぱちんと音を立ててはさみを入れる。何とか肩が出るとするりと体が出てくる。
 小さな分娩室の中は血と肉の匂いでいっぱいで、声をかけながら一緒に力を入れて呼吸していたせいか、僕はほっとした途端にめまいと吐き気がして、ベッドの横のいすに座り込む。
 ユリさんは疲れ果てて大きく呼吸しながら、ベッドの上でぼんやりと空中を見ている。
 看護師さんたちはてきぱきと、へその緒を切り、赤ん坊の体をふき取り、足型を取ったり重さや大きさを計測したりする。女医さんはユリさんのはさみで切開した部分を縫いあわせる。
 赤ん坊は服を着せたらもう抱かせてくれる。ぬるぬるして赤黒い紫色の赤ん坊は、二・五キロあるはずなのになんだかすごく小さくて軽い。ユリさんもベッドに横になったまま赤ん坊を抱く。
 その後、入院する部屋に行くために僕は防菌服を脱いで部屋の外に出て、生後小一時間くらいの赤ん坊を抱いたまま普通の廊下で一時間くらい待たされる。心細くなってきていらいらしながら待っていると、ようやくベッドに横になったユリさんが分娩室から出てくる。縫い合わせる場所が間違っていてやり直していたらしい。
 部屋に着くと、看護師さんたちがユリさんの体の血や汚れををふき取り傷跡を消毒して下着と服を着せてくれる。赤ん坊はその間どこかに連れて行かれた。たぶんいろんな検査があるんだろう。

 僕は病院の前の店で国際電話用テレホンカードを買い、電話ボックスから日本の家族に電話をかける。スペインの友人たちにも携帯電話でショートメッセージを送る。
 午後エイコさんが来てくれて、夕方エバが来てくれる。その間に僕は一度家に帰って二時間ほど寝て、キッチンに出しっぱなしだったトマトソース煮の残りを立ったまま鍋から直接食べて、いそいで病院に戻る。
 一日に数回、赤ん坊は看護師さんに連れて行かれ三十分ほどで戻ってくる。病室は二人部屋で、付き添い人はリクライニングするいすで夜を過ごす。僕とユリさんは一時間くらいうとうとしては起きてを朝まで繰り返す。ユリさんは何度か母乳をあげようと試みる。胸の上の赤ん坊も一生懸命吸おうとするが、口が小さすぎてまだうまくくわえられない。
 明け方の五時ごろ何度も泣くので、オムツを見てみたら少しうんちがついていた。

 僕はこれで無事に、労働許可も持たないまま一家の大黒柱になった。

2004年12月19日(日)

 スペインでの出産は健康保険が使えるので無料だけど、二泊しただけで今日はもう退院する。赤ん坊の世話も基本的にはセルフサービスで、看護師さんにサポートしてもらいながら各自でやる。入院中のオムツなどの消耗品もある程度は病院でもらえるが自分たちで用意していく。出産直後のお母さんはほとんど動けないので、誰か必ず付き添ってあげなければならない。病院は医療サービス以外の面倒はみてくれない。
 不便なこともたくさんあるけど看護師さんたちはたいてい親切で、入院生活は覚悟していたよりずっと快適だった。生まれた瞬間から家族三人で一緒に過ごして、同じ部屋で寝ることができるのはいいことのような気がする。
 食事もボリュームがあっておいしい。ユリさんは一人で食べきれないので僕も少しだけもらう。昨日は朝がクロワッサンとチーズと牛乳、お昼は白身魚とムール貝の煮込みにサラダとフルーツとパン、夜は鶏肉のトマトソースとサラダとパンとフルーツジュース、合間にビスケットなどのおやつ。
 生まれた翌日には子供の名前を病院で登録するので、生まれる前に名前を考えておかなければならない。冬に生まれた彼の名前はユキ。
 ユキはほんの少しずつ母乳を飲んだり泣いたりするようになった。

 今日は午前中にユリさんとユキそれぞれの検診があって、お昼ごろにはタクシーを呼んで家に帰る。たまった洗濯をしながら、ツナ缶でクリームパスタをつくって二人で食べる。
 エイコさんたちが出産祝いを持ってきてくれる。僕は開いている薬局を探して、ユキの粉ミルクとアルコールとガーゼ、ユリさんの鉄分の錠剤と痛み止めを、お医者さんに言われたとおりに買いに出かける。ユリさんは三時間おきくらいに母乳をあげるが、うまく出ていないようなので粉ミルクを飲ませてみる。

 つぼみばかりだった鉢植えの小さな赤い花は、ほとんどがもうきれいに咲いていて、隣のペットボトルの箱の中のイモムシはいくら探しても見当たらず、小さくしなびたキャベツと葉っぱだけが残っていた。

2004年12月24日(金)

 生まれてちょうど一週間のユキをベビーカーにのせて朝から病院へ行く。
 生まれたとき二五五〇グラムだった体重が二日後退院するときには二三〇〇グラムに減っていて、今日はかると順調に二五五〇グラムに戻っていた。毎週体重をはかって二週間以上増えないようなら病院に連れてくるようにとか、へその緒がとれて四十八時間たつまではお風呂に入れないように、などのアドバイスをたくさんもらう。母子ともに異常がなく安心する。

 夜、エバの家に遊びに行く。
 前回も来ていたカナさんも子供たち二人と一緒に来ていて、三歳児二人はけんかしたり走り回ったりとあいかわらずにぎやかだ。生後二か月の赤ちゃんは、先日見たときにはすごく小さく感じたけれど、今毎日ユキを見ているので、びっくりするくらい巨大に見える。体重は約五キロ、丸々としていて貫禄があり、泣き声も大きくて迫力がある。どこから見ても立派な赤ちゃんだ。ユキも二か月後にはこうなって、三年後にはああなるんだろう。
 シナモンやプルーンと一緒にオーブンで焼いた鶏肉、貝の形の大きなショートパスタと肉団子のスープなどをエバは準備してくれる。クリスマス料理の定番らしい。
 一応僕たちも子供たち二人にクリスマスプレゼントを持ってくるが、一〇〇円均一の万華鏡と、一・二ユーロの小さなプラスチックの音の出るキーボードのおもちゃ。エバはちゃんとしたプレゼントを配っていて少し恥ずかしい。ユキにはベビーカーにつけるカラフルなヘビのぬいぐるみをもらう。
 僕の靴は数か月も前からつま先がやぶれていて、目立たないからまだ大丈夫だろうと思っていたけど、正面からだと靴下が見えているらしい。今日エバに言われて初めて知った。僕は少し苦笑いする。
 カナさんにベビーバスや搾乳機など、もう使わないベビー用品をもらう。

 夜遅くにタクシーで家に帰る。ユリさんは毎日寝不足で今日も疲れたようだ。

2004年12月31日(金)

 ユキはうまく母乳が吸えないようなので、ユリさんが自分の母乳をしぼって哺乳瓶で飲ませている。飲む量も順調に増えていて、母乳で足りない分は粉ミルクをあげている。
 体重は約三キログラム、首もとの布団を押しのけたり、自分の顔を触ったり、小さな手の動きが意志を持っているようにみえる。「キュッ」という声をだしてしゃっくりをしたり、くしゃみをしたりする。「キュー、キュー」と声を出すが、まだ人間ぽくもないし赤ちゃんぽくもない。明け方からお昼くらいまではよく寝る。夜中の十二時から午前四時くらいまでは一時間おきくらいでミルクを飲みながらずっとおきている。生まれた初日から、なぜだかずっと夜型だ。一日中ほぼ三時間おきくらいにユリさんはミルクをあげて、合間に搾乳機でしぼって冷蔵庫に保管する。
 サザエのはらわたみたいに黒くてつやのあったへその緒は少しずつしぼんで干からびて、二日前にとうとう取れた。

 晩ご飯にそばをゆでてかきあげをのせて二人で食べる。
 写真入りの子育ての本を見ながら、ユリさんと一緒にユキをお風呂に入れていると、近所のピソからにぎやかな歓声が上がり、遠くで爆竹や花火のなる音が聞こえる。
 壁の時計を見上げると十二時ちょうどだった。

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