2005年目次

icon1月30日
icon2月11日
icon2月14日
icon3月13日
icon4月24日
icon5月22日
icon6月26日
icon7月31日
icon8月9日
icon8月24日
icon8月30日
icon9月25日
icon10月23日
icon11月27日
icon12月23日
icon12月28日

2005年1月30日(日)

 ユキはますます大きくなり、よくミルクを飲んでよく泣く。体重は約四・五キログラムで丸々と赤ちゃんらしくなってきた。動きや表情を見ているだけで全く退屈しない。
 ユリさんは子育てで大変だろうと思い僕が家事をするように心がけるが、あまり手を出すと彼女もわずらわしいようなので、時々交代で気分転換に外へ出かける。
 カタオカで働くための学生ビザでの労働許可申請の書類を先日提出してきた。一月出産予定だったのが十二月に生まれて、ユリさんももう元気に家事ができるようになったので、僕もそろそろ仕事を始めたい。

 近くまで来たのでエバの家に顔を出すと、カナさんも子供たちをつれて遊びにきていた。
 そしてエバのだんなさんのケンジさんは二月上旬で日本に帰るらしい。理由は労働許可と仕事。子供はいるけどエバとケンジさんは入籍していず、ケンジさんは労働許可がないので仕事も見つからない。今後は日本で働きながら、バルセロナの家族に仕送りを続けるらしい。その先のことはまだどうなるかわからない。
 学生ビザでスペインに来て、そのまま家族を持って仕事を探しているという境遇も僕と似ていて親近感を持っていたから、突然の帰国はすごく残念だ。全くの他人事とは思えない。これまで日本語を教えたり、ウェイターをやったりしてきたけど、家計も大変で今回の決断にふみきったようだ。スペインで四年以上の間いろいろ試した上での結論なんだろう。
 しかたがない。僕たちは外国人で、それぞれいろんな生き方がある。

 夜またダニくんが遊びに来る。五月に日本語弁論大会があって、その準備をしている。僕も一緒に原稿を見て、日本語を修正する手伝いをする。
 彼は普段から日本のポップスを聴いて、日本のやくざ映画などを観ている。日本人のユリさんもびっくりするくらいの日本大好きっぷりだ。

2005年2月11日(金)

 昨日ホルヘから電話があり、学生ビザで働くための許可の通知が届いたという。直接お店に行って、今後の仕事内容や給料などの話を聞く。
 半年間の夏休みがとうとう終わった。

 今日はお昼十二時に出勤して制服やロッカーの鍵などをもらい、ポストレ(デザート)の仕事をする。パウラに教えてもらいながら、盛り付けなど一つ一つ確認していく。彼女は二年前、僕と入れ替わりでここで働き始めた二十代の女の人だ。
 夕方一度家に戻って休憩した後、午後八時に再び出勤。パウラは焼き場をやって僕は引き続きデザートとカフェ。
 二年前の夏を思い出す。アイスクリームを盛り付けながらどんどんコーヒーを入れていく。たまに失敗もする。夜一時半ごろまかないを食べてお店を出る。
 久しぶりの仕事で初日だからか、大変だけど楽しい。

2005年2月14日(月)

 昨日の昼過ぎにエバの家に顔を出すが、ケンジさんはもう日本に帰っていて、アリシアちゃんはバルセロナ近郊のエバの両親の実家にあずけていて、エバ一人だけがいた。これまでいつ行ってもにぎやかだった家の中がずいぶん静かで、「一人でゆっくり休めるからこのほうがいいよ」と彼女は言っているけれど、なんだか少しさみしそうにも見えた。単に疲れているだけかもしれないけれど。
 彼女は会うたびに職場が変わっている。今もいくつかの仕事をかけもちしていて、平日はアリシアちゃんの学校の送り迎えもあって大変だろう。僕が口を出すようなことじゃないんだろうけど、ケンジさんと協力しながらうまく一緒にやっていく方法は本当になかったんだろうかという気持ちになる。

 夜は僕の就職祝いだからといって、ユリさんがカバ(カタルーニャの発泡ワイン)や生ハムを用意してくれた。
 僕が無職の間、一緒に家事と子育てをしていたときはお互いいらいらすることもあり、そのつど二人で話しあったりもしたけど、そうなるとたいていうまくかみ合わない。どうしようもないので気まずいまま時間をあける。今日はカバを飲みながらゆっくりといろんな話をする。いろいろもめごとはあるけど、ユリさんも僕と一緒にスペインで暮らしていくという意思を持っている。
 家族みんなで気持ちよく暮らせたらいいのになと僕は思う。たぶんユリさんもエバもケンジさんも、それ以外のどんな人もみんなそうなんだろうと思う。

 ユキはあいかわらずよく泣いてよくミルクを飲む。お腹がすいたといっては泣いて、お腹がいっぱいだといっては泣く。

 今日から持ち場が焼き場になって、フェルナンドに教えてもらいながらメモをとる。焼き鳥、親子丼、牛丼、とんかつ、エビフライ、春巻きなどが主な仕事。仕事時間はお昼が午前十一時半から午後四時ごろまで、夜は七時半から十二時ごろまで。

 ここ数日間、春のように暖かい日が続いていたけど、今朝から急に風が強くなり気温も下がる。寒波がくるらしい。ユリさんと赤ん坊の寝ている部屋には、拾ってきた電気ストーブを一日中点ける。木枠の大きな窓が風にがたがたと音をたてている。

2005年3月13日(日)

 毎日毎日、焼き鳥や春巻きを仕込む。
 鶏もも肉のすじや脂を取り除き、小さく切ってねぎと交互に串にさしていく。一〇〇本以上を大きなタッパーいっぱいにつめておいても、週末はがくれば一日でなくなる。
 半解凍の牛肉をスライサーで薄くスライスして、ねぎを巻いてこれも串でさしてタッパーにつめていく。春巻きや牛丼やとんかつもどんどん仕込んで冷凍しておくが、週末になるとみるみるうちになくなっていく。

 一週間があっという間に過ぎていく。お昼と夜の仕事時間の間は、家に帰って一時間ほど仮眠を取れば終わる。日曜日は何もできずに家で休憩するが、月曜日の朝までに疲れが抜けきらない。
 一か月の僕の給料が手取りで九〇〇ユーロとチップが百数十ユーロ。お店でまかないを食べるので僕の食費はかからないが、今の家賃が五五〇ユーロなので子供がもう少し大きくなれば家計はマイナスになる。これがこれまで望んでいたスペインでの生活なんだろうかとも思うが、労働許可をとるまで転職はできない。

 三か月のユキの体重は約六キログラム。久しぶりに抱っこするとずしりと重い。自分の親指をしゃぶり、よく泣いて簡単には言うことを聞いてくれない。

 先週から労働許可の申請をするための書類集めをはじめた。今回は学生ビザで働くための許可ではなく普通の労働ビザなので、これがおりれば転職することもできるし、ユリさんも付帯家族として滞在許可がおりるし、語学学校に学費を払って学生ビザの延長をしなくてすむ。

2005年4月24日(日)

 今週日本から無犯罪証明書が届き、全ての必要書類がそろう。二十八日に労働許可申請の書類を提出する。
 本来なら一時帰国して日本での書類手続きも必要なのだが、今回の労働許可申請は臨時の法律なので、いくつかの条件にあうスペイン国内の外国人に、比較的簡単な審査で労働許可を発行してくれる。水面下にたくさんいる不法労働者たちに労働許可を出して、彼らから税金を集めるのが目的らしい。
 エイコさんも今働いている会社で申請してもらうと言っていた。

 僕の持ち場が揚げ場にかわる。てんぷら、天丼、かき揚げ丼、茶碗蒸し、トロのタタキ、舌平目のから揚げなどが主な仕事。
 あいかわらず毎日毎日仕事だけで時間が過ぎていく。日曜日と週一回交代の半日休みはほとんど活用できず、たまに代わりに子守りをして、ユリさんに一人で気分転換に出かけてもらう。
 休みの日に家族で出かけたりというようなことは、お金もなければ体力もなく当分できそうにない。

 今週、ショッピングセンターや電気屋をまわって、テレビとDVDプレイヤーを買ってきた。これまでラジオだけだったので部屋の中が明るくなる。
 日曜日の夜はたいていダニくんが遊びに来る。分厚いファイルに日本語の勉強で使うプリントをぎっしりつめて、最近は日本語弁論大会の準備をやりながら、日本の音楽やマンガの話をする。
 ユキは丸々としているが、最近めだって身長が伸びはじめた。あやすと笑ったりきちんと反応があり、一人一人の顔や声も識別している。

 僕は毎晩仕事の後ユリさんとユキの寝顔を見ては、テラスに出て安いウィスキーを飲みタバコを吸う。
 休みの日はユキをあやしながら、ウィスキーをなめる。ここで生まれ育つ彼はどんな人になるんだろう。僕はぼんやりと考える。ユリさんはいらいらしながら洗濯物をたたんでいる。今の僕がユリさんとユキにしてあげられることは一体なんだろうか、なんて考えるまでもなくお金をかせぐことだろう。普通に生活して、一年に数回くらいは外食して、休みの日には家族で出かけて、何年かに一度くらいは日本に一時帰国して、ユリさんは家事の合間に小さな趣味でも持って……
 そして僕はテラスに出てまたタバコに火をつける。ユリさんはいらいらしながら掃除をしている。
 小さなテラスから見える路地の隙間の狭い空はいつもどおり青い。

2005年5月22日(日)

 ユキに上の前歯が二本生えてきた。ずっと前からできそうだった寝返りに、先週とうとう成功した。

 ユリさんの学生ビザが今年の秋で切れる。延長するためにはまた学校に学費を払って入学手続きしなければならないが、子育てが忙しくて授業には出られない。僕の労働許可がたぶんもうすぐおりるので、ユキと二人の家族ビザを申請することにする。
 今年の夏からその手続きの期間中、おそらく半年から一年くらいの間、栃木の実家に里帰りして子育てしながら待っていてもらうことにする。その間に僕は家族三人で生活できるようにバルセロナで準備をしなければならない。
 今年の夏三人で日本に帰って、ユキを大阪と栃木の家族に会わせて、ユリさんと子供を栃木に残したまま、僕だけ二週間くらいの日本滞在でスペインに戻ってくるという計画を立てる。

 子供ができてからずっと、求人情報などを見ながらスペインで家族を養う方法を考え続けてきた。もちろんどんな職業を選んでも大変だろうけど、日系の会社に就職するか、このまま調理でやっていくか、くらいしか今の僕には選択肢がおもいあたらない。日本語を教えたり、ガイドや通訳をしたりして家計を支えていくのは性格上正直自信がない。
 今の僕の給料ではとても三人で生活はできず、飲食業で生きていくなら独立するしかないだろうとかなり前から考えていた。結婚のために去年日本に帰って両親に会ったときすでに、今後スペインで店を出したいと考えているので、数年後お金を借してもらうことは可能ですかという話はしてある。
 家族三人で暮らすためには一か月に二〇〇〇ユーロ近くは稼がなければならない。スペインでは共働きが普通だけど、ユリさんが子育てをしながら続けられるアルバイトを見つけるのはたぶん難しい。でも僕が店を出せば家庭で家事をしながらサポートしてもらう方法はいろいろあると思う。

『スペインで、外国人である自分にできることは一体なんだろう』と考えることは、『スペイン人たちが、日本人である自分に一体何を求めているか』を考えることだと思う。
 僕がこれまでの人生でやってきたことを一つ一つ思い返しながら、いまの自分にできることを考える。もしそれが本当にスペインで求められているのであれば、自然とお金や仕事や人につながっていくんじゃないかと思う。

 最近、ユリさんと将来どんなお店を出そうかなんて話をしている。バルセロナにもたくさんの日本食レストランがあるが、ほとんどが中国人経営で、もちろんきちんとしているところもあるんだろうけど変な日本食を出しているところも多いと聞く。
 僕自身がスペインで働いたお店はマルベージャで二軒、バルセロナで一軒。調理場で一緒に働いた人たちもオーナーも国籍はみんなばらばらだけど、いろんな国の人たちの仕事を見てきて、これなら自分でも勝負ができるんじゃないかと感じている。
 カタオカで仕事をしていても料理の勉強になることはあまりないが、スペイン人や中国人の仕事の仕方や考え方を知るのにすごく役立っている。

 お昼過ぎ、二年前に語学学校で知り合ったユウジくんたちが遊びに来る。彼はいまエスパニョール(バルセロナのサッカーチーム)の系列の学校で、サッカーの勉強をしている。マルベージャにいる間もたまに連絡を取り合っていた。赤ん坊を見てもらいユリさんと彼らと四人でお昼ご飯を食べる。
 夕方には入れ違いでダニ君が来て、日本の音楽を聞きながらビールを飲む。

 夜になってからぱらぱらと雨が降り始めた。窓から見える細い坂道のアスファルトに薄い膜のような川が流れて、時々自動車が走りすぎていく音が聞こえる。

2005年6月26日(日)

 ユキはまだハイハイはできないけど寝返りがうてるので、ころころと転がりながらどんどん移動する。ベッドからも転がり落ちる。夜は必ず一回起きてミルクを飲む。歩行器に座らせると前や後ろに移動して動きまわる。明るい色の広告が好きで、つかんで引っ張って振り回して、くしゃくしゃにまるめて破って、楽しそうに遊んでいる。

 今週はサン・ホアン(夏至のお祭り)で、カタオカは金曜日から日曜日まで三連休。
 ユリさんはユキをつれて木曜日からエバの家に泊りに行っていて、金曜日の昼ごろ僕もお邪魔して一緒にお茶を飲む。帰りに、アリシアちゃんのおさがりの子供用のいすと折りたたみベビーベッドと買い物カートをもらう。ユリさんはユキを抱っこして、僕はベビーカーに荷物をのせて、のんびり歩いて帰ってくる。
 お昼ごはんに冷たいトマトパスタをつくって二人で食べる。夜は辛いキムチ鍋を食べながら借りてきたDVDを見る。

 土曜日はのみの市に行く。人ごみの中でベビーカーを押していると、ユキの機嫌があまりよくない。中古の家具を見て歩いた後、近くのショッピングセンターで少し買い物して家に帰る。お昼は冷やし中華をつくる。
 夜にはダニくんが遊びに来る。先月行われた日本語弁論大会は無事入賞したらしい。今週から彼は日本に旅行に行く。ワインを持ってきてくれたので三人で飲む。

 日曜日は一人で家の近くのプチェットの丘にいく。
 三日間ずっとユリさんと一緒にいると、どうもお互いいらいらして気まずい雰囲気になる。僕は仕事で疲れているので三連休とはいえ全然余裕がない。ユリさんも育児で疲れているんだろう、たえずいらいらしている。僕が子守をするので彼女は息抜きに出かけてもらおうと申し出るが断られる。少し距離をとろうと思って、僕は丘の上の公園のベンチで半日本を読んで過ごす。
 先週からすっかり夏のように暑くなり、リビングに扇風機を出した。
 丘の上の木陰のベンチで僕は青い空を眺める。薄い飛行機雲がゆっくりとのびる。時間をかけたわりに小さな詩集のページはあまり進まなかった。

2005年7月31日(日)

 七月になりレバッハ(バーゲン)がはじまって、僕は仕事の合間にうろうろとお店を見てまわる。
 僕は見て悩んでユリさんにあれこれ相談するだけで、普段ほとんど買い物をしないが、今回は自転車を買った。定価四二〇ユーロが三五〇ユーロに値引きされたマウンテンバイク。日本から持ってきた自転車がバルセロナに来てすぐに盗まれて以来、ずっとほしいと思っていた。
 生活必需品も満足にそろっていなく、家具はほとんどもらい物や道端のゴミ捨て場から拾ってきたもので、服も外で着られなくなったものを部屋着にしているから、僕は穴だらけのティシャツやあちこち破れたズボンで生活している。今の僕の収入も余裕なんかまるっきりないので、こんな買い物は大変なぜいたくだと思ったんだけど、ユリさんはあっさりと許してくれた。
 きっとユリさんだってほしくて買えないものがたくさんあるだろう。

 日曜日にはバルセロナからすぐ近くに見えるコルセローラの山を自転車で走りに行く。汗をかいて風の匂いをかぐ、空を感じて街を見下ろす。
 バルセロナについてすぐの頃もこうやって一人で山道を走っていた。スペイン語もほとんどわからなかったけど、ヨーロッパ人たちなんかに負けるもんかっていつも思っていた。当時の自分を今の僕は、懐かしくほほえましく感じる。これからまた何年かたって、こんな今の生活でも懐かしいって思えるようになれるんだろうか。

 昨日までの金曜日と土曜日の二日間、ユリさんはエバとビック(カタルーニャの街)へ一泊旅行に行っていた。二人とも子連れだけど楽しめたようでよかった。
 エバはもうすぐユリさんと少しの間離れ離れになるのがさみしいようで、週に三日か四日くらいは必ず会っている。

 突然中国人のユンロンから電話があり、今日会うことになる。待ち合わせ場所のソナ・フランカのショッピングセンターにユキを乗せたベビーカーを押してユリさんと行くと、ユンロンとチャオとユンロンのお母さんが来る。
 近くの中華料理屋で軽くお昼を食べたあと、ユンロンのピソへおじゃまする。
 二年ぶりにあう彼は当時アルバイトしていた会社で今も働いていて、僕と同じように労働許可を申請している最中らしい。彼のいる会社は書類手続きをする事務所で、個人の労働許可発行や会社の労働契約などの書類をつくったりしている。そういえば二年前もそんなことを言っていたような気がする。当時彼は書類と毛布を持って前日の夜中から移民局の前で並んだり、そんなことばかりしていた。
 中国からお母さんを呼んで、二人で住んでいるピソは新築で広く、家賃八〇〇ユーロ以上はしそうだ。きれいな部屋の中には真新しい電化製品が並んでいる。仕事も生活も順調なようだ。

 二年前に同じ部屋で住んでいた僕たちは、スペインに来たばかりで言葉もわからずお金もなく本当に何も持っていなかった。
 こうして家族の話をしたり仕事の話をしたりするようになるなんて本当に不思議だ。
 今の僕は子供ができたばかりでお金もなく気持ちに余裕もなく、今日彼らと会うのも正直気がすすまなかったけど、うまくいっている様子を見るとやっぱりすごくうれしく思う。

2005年8月9日(火)

 労働許可申請の手続きは、先日役所に行って書類に指紋を押して証明写真などを提出してきたので、後は一か月後にカードを受け取りに行くだけだ。

 先週いっぱいでカタオカは三週間の夏休みに入った。最終日は通常通りの仕事を終えた後、簡単に大掃除をした。エビや肉などの食材を全て冷凍保存して、野菜類はかき揚げと野菜のてんぷらにして、みんなのまかないにした。お寿司やサラダなど各持ち場の余りものを全部使い切ってしまうとかなりの量になった。

 昨日はユリさんとユキと三人で街の中心へ出かけた。
 カタルーニャ広場のエル・コルテ・イングレス(スペインのデパート)などで日本へのおみやげ物を買う。僕とユリさんは、おみやげを買うにも数十センティモの単位まで一つ一つ値札を見て、二人で考え込む。
 その後、旧市街を通って海まで散歩した。夏休み真っ只中のバルセロナには外国からの観光客がたくさんいて、日本人もたくさんいた。日本人観光客は服装や持ち物が洗練されていてすぐにわかる。すれ違うとき、自分の格好がみすぼらしくて少し恥ずかしくなる。
 バルセロネータ(バルセロナのビーチ)からみえる水平線の上には、白い積雲が遠くにまっすぐ並んでいた。

 今日は朝から少し自転車で山に走りに行き、午後は明日の出発の準備をする。
 僕の荷物は下着類が少しだけだけど、ユリさんとユキはこれから当分日本で生活することになるので、衣類やおもちゃなど身の回りのものを僕のザックにパッキングする。おみやげ物などをユリさんのスーツケースに詰め込む。
 明日から日本へ一時帰国。家族三人で行って、二週間後には僕だけバルセロナへ戻ってくる。バルセロナで生まれて八か月のユキは、もちろんはじめての飛行機ではじめての日本だ。

2005年8月24日(水)

 僕たち三人はまず大阪でお墓参りをしたり、親戚のうちにあいさつに行ったりした。
 僕の両親の住む家のすぐ隣には、弟夫婦が三歳と六か月の子供二人と住んでいる。たえず誰か大人がいるし、ユキも遊び相手がいるので僕たちもたすかる。
 八か月のユキはハイハイで部屋中を動きまわり、つかまり立ちでテーブルをばんばん叩いてにこにこしている。
 スペインではほとんど買い物しないけど、衣類は日本のほうが安いのでこの機会に下着類を買っておく。めがねとデジカメも買う。免許証の更新をする。
 今回は前回よりも少し時間に余裕があるので、なるべくユリさんと観光に出かける。当分、一年かそれ以上か、僕は彼らと会えない。毎日目に見えて成長していくユキも見れない。
 日帰りでユリさんとユキと三人で奈良に行く。家を出て電車に乗ってすぐに、僕とユリさんはお互いいらいらして、乗換駅のファーストフード店に入りアイスコーヒーを飲みながら話をする。バルセロナにいた頃から、ささいなことでいつもこうなる。
「そんないらいらしているヒトシさんと行きたくないよ」「別にいらいらしてないよ、そっちこそ朝から変だよ」「私は普通だよ」「普通じゃないよ」「いやなら無理して行く必要ないよ」
 ユリさんからは離婚の言葉まで出る。マルベージャにいた頃から、いつもこうなる。
 行く、行かないと三十分くらい話をした挙句にしぶしぶ行く。行ったら行ったで楽しく過ごす。

 学生の頃の大学山岳部の友人たちと会う。
 去年の十二月に現役部員の遭難事故があり、捜索活動のすえ、ついこの六月になってようやく遺体が発見された。僕はスペインにいたのでOBとして捜索活動に全く協力できなかったが、彼らからの話を聞いて、自分が現役部員だった頃を思い出した。そして、これまでに山と海でなくなった人たちのことを思い出した。

 大阪の両親には、将来お店を出すためのお金を貸してもらえないだろうかと話をする。まだ全然いつかはわからないけど、もう具体的に行動しないと家族三人で生活できない。スペインで暮らしていくということについて、店を出して独立するということについて、賛成はしないが了承はしてくれた。

 十日間ほど大阪で過ごした後、四日前に栃木に移動してユリさんの家族と会う。ユリさんのお母さんは初孫と初対面、ユリさんとユキと当分一緒に暮らせてうれしそうだ。

 そして今日は朝五時に起きて、寝ているユキを起こさないように注意しながら五時半にはユリさんの実家を出る。
 台風が近づいているらしく昨日の夜から生ぬるい雨が降り続いている。駅前のバス停までユリさんと一緒に傘を差して歩く。少しずつ小降りになった雨がやんで、空港行きの高速バスがやってくる。僕は一人でバスに乗って雨に濡れた窓からバス停を見下ろす。バスが走り出すとすぐに、ぽつりぽつりとまた雨が降り始める。
 ユリさんは見えなくなるまでバス停で手を振っていた。僕は灰色の厚い雲に覆われた空を見ながら、彼女がもたせてくれたおにぎりを食べた。
 次会うとき僕は彼らに何をしてあげられるだろう。

2005年8月30日(火)

 バルセロナに戻ってから、レセップスのピソで僕の一人暮らしがはじまった。僕とユリさんと赤ん坊の三人でどんどん手狭になっていた一LDKが、急にがらんと広くなって驚いた。

 仕事が始まるまでの数日間は自転車に乗ったり、友人たちと会ったりしてすごす。
 昨日エバと会って晩ご飯を二人で食べた。ユリさんからあずかっていた日本からのおみやげを渡す。彼女は一人で働きながら子供を育て、いろいろと悩んでいるようでバルセロナから引っ越そうかとも言っていた。よい仕事はなかなか見つからず、生活が苦しいらしい。僕もあらためて今後のことを考える。
 五年くらい前から物価が上がり続け、家賃も公共料金も上がっているが収入はほとんど変わらない。スペイン経済は成長しているらしいが、給料はあがらずに身の回りの物の値段は一・五倍くらいに上昇している。それでも日本ほど深刻そうに見えないのは、スペインのお国柄と医療費が無料なのと失業保険などが充実しているからだろうか。

 今日から仕事が始まる。普段より少し早めに十一時前くらいに調理場に入る。掃除をして仕込みをする。初日なのでお客さんは普段ほど多くない。
 また毎日毎日仕事の生活がはじまる。

2005年9月25日(日)

 先日、労働許可証を受け取りに行ってきた。日付は来年の七月三十一日までの一年間、来年の延長手続きでもらえるのが二年間、その次も二年間、合計五年たてばその次からは五年間分のビザがもらえて、延長手続きなども比較的簡単になる。それまではきちんと労働契約を交わして就職していないと延長の許可がおりないこともあるらしい。これでやっと堂々と仕事をして住むことができるようになった。
 スペインに来て二年半がたって、ようやくスタート地点についたような気がする。

 仕事が休みの日曜日には、自転車で山を走ったり、家の前のロクトリオ(インターネットや国際電話などができる店)でインターネットをしたり、国際電話でユリさんと話をしたりしている。

 ユキは数秒の間一人で立っていられるようになって、あいかわらず元気で机や壁をばんばん叩いて遊んでいるらしい。

 今週はメルセ(バルセロナのお祭)で、街中いたるところでコンサートなどの催し物をやっている。金曜日からの三日間、会社や学校などは連休だ。
 ユリさんと出会ってすぐの九月にも、このお祭りでラバル地区のライブに行った。マレマグナム(海沿いのショッピングセンター)のワインの試飲イベントにも行った。バルセロナ中いたるところに小さな思い出がたくさんあって、一人暮らしを始めたばかりの僕は、ユリさんといた頃のことをいちいち思い出す。

 僕は今週もいつもどうり毎日仕事で、そして風邪を引いて、仕事から帰ってくると風邪薬を飲んで厚着をして汗だくで寝てすごした。
 テレビをつけると派手な化粧をした女性アナウンサーが、アフリカからの不法入国者をのせた船がスペインへ流れ着いたというニュースを話していた。今年の四月までで二〇〇〇人以上の移民が保護されているらしい。

 これまでほとんど外食はしてこなかったのだが、今後の参考にするために、バルセロナのいろんな日本食レストランに食べに出かけるようにする。
 今日はダニ君とエイシャンプラ地区のお店に食べに行く。ガイドブックにものっているからか、客席には意外と日本人が多い。オーナーらしき日本人のおじさんは、スペイン人のお客さんにはにこやかに接客しているが、なぜか日本人には驚くほどそっけない。
 スペイン人たちは左手でお茶碗を持ち上げたりはしないし、音をたてて麺をすすったりもしない。一生懸命お箸を使いながら食べている様子はぎこちなくてほほえましい。普段毎日カタオカの地下の調理場で中国人たちと働いているけど客席を見ることはないので、新鮮でなんだか不思議な感じがする。

2005年10月23日(日)

 毎日毎日てんぷらを揚げ続ける。部屋に帰ると一人で安いウィスキーを飲んで寝る。一週間待ちわびた日曜日は気がつけば終わり、前の一週間となんの区別もつかない次の一週間がまたはじまる。
 調理場で働いているのはスペイン人が二人、日本人が僕一人で残りは中国人。ホールはスペイン人と中国人四人ずつくらいと日本人二人。みんなそれぞれ愚痴を言いながらも、楽しそうに働いている。なんだかそれがうらやましくもあり、ねたましくも感じる。

 職場で一日二回まかないが出るので、普段僕がお金を使うのは通勤の地下鉄代と、ユリさんと毎週電話で話をするためのテレホンカード代と、たまに日本食レストランに食べに行くぐらい。家賃と光熱費を払ったら、たいした額は残らないけど全部貯金する。
 僕はユリさんとユキの家族ビザの書類をそろえて申請するために、メールを送ったりファックスを送ったりしはじめる。
 問い合わせるだけでも、なかなかうまく進まない。

 休みの日には自転車で山やバルセロナの街をのんびり走る。同じバルセロナの市内でもそれぞれの地域には個性があって、将来僕たち三人が生活しているのをイメージしながら走り続ける。
 もともと僕はこれまでもいろんなところで一人暮らしをしてきたので、一人での生活にもすぐになれた。そして思い起こすと僕とユリさんは、一緒に生活している間いつも喧嘩ばかりしていた。ユリさんから離婚の話が出たことだって何度もある。原因を解決して取り除かないと、いずれ一緒に暮らせるようになっても同じことだろう。
 大丈夫、きっとうまくいく。これまで何度もユリさんに言い続けてきたこの言葉は、無意識のうちに自分に対して言っている。
 そして今日も僕はバルセロナの街を自転車で走る。高台にある住宅地のロータリー交差点で立ち止まると、ビルの隙間にくっきりと青い水平線が見えて、雲ひとつない青い空へと続いていた。

2005年11月27日(日)

 今月に入って中国人の料理人が奥さんの出産で長期休暇に入った。焼き場のパウラも手をやけどして一週間くらい休んでいた。
 そして、僕は先週また風邪を引いた。普段から疲れが取れないせいか、少し無理をすると簡単に体調をくずす。毎日仕事の後で薬を飲んで、休みの日には一日家で寝て過す。
 日本で調理の仕事をしていたのは二十代の半ばごろ、当時はこんなことなかったのになと思いながら、日曜日にはなるべく自転車で走ったり基礎体力づくりを心がける。
 もし本当に自分で店を出すなら、これからが本番だ。体を壊している暇なんかない。

 毎週日曜日にはユリさんと電話で話をする。ほんの三十分くらいだけど、今の僕が唯一なんでも話せる時間だ。でも今週は都合があわず中止になる。彼女は先週ユキをつれて五日間ほど大阪の僕の実家に遊びに行っていた。そして、パンやお菓子をデパートの地下で販売している会社でこれからアルバイトを始めるらしい。ユリさんは毎週メールでユキの写真を送ってくれる。携帯電話で写した小さな画像でも、どんどん表情が豊かになっていくのがわかる。

 久しぶりにエバと会う。仕事を何か所か掛け持ちしていて、週末だけ子供をバルセロナ郊外の実家にあずけている。彼女もずいぶん疲れてるようだ。

2005年12月23日(金)

 誕生日とクリスマスのプレゼントに、ユキへ積み木を送る。ユリさんや家族のみんなにも、カレンダーやお菓子を一緒に入れておく。
 エバもユリさんにプレゼントを送りたいらしいので、一つにまとめて発送することにする。彼女が選んだのはパジャマ。
「ユリはこういうデザインはあまり好きじゃないだろうけど、私がすごく気に入ったの。好きな人に好きなものを身につけていてほしいからこれを選んだんだ」
 ささいなことだけど、さらりと言った彼女の言葉に僕は少し驚いた。日本人がプレゼントや贈り物をするときは、どんなものが喜ばれるだろうかとまず相手のことを当然考える。場合によってかなり悩んだりもする。
 スペイン人はプレゼントをするのが大好きだという理由が少しわかったような気がした。大切なのは自分がいかに楽しむかで、受け取る相手のことはあまり重要じゃないようだ。

 クリスマスなので、今週はカタオカでもグループ客が多く忙しい。今日は仕事納めで明日からクリスマス休み。仕事を終えてからみんなでワインを飲む。でも、僕はとてもそんな気分ではないので、すぐに帰ってくる。
 二年前に、僕は住むためにスペインにきた。仕事をして、お金をかせいで、きちんと生活できるようになるために来た。僕がスペイン語を勉強するのは友達をつくって会話をするためではなく、生きるため。そんな理屈で自分の周りに壁を作って閉じこもる。僕のような人間に友達なんかできるわけないな、と自分でもそう思う。たぶん気持ちに余裕がないせいだろう。そして、それはお金がないからだろう。
 若い頃の苦労は買ってでもしろなんて、一体誰が言ったんだ。自分より恵まれた人をねたみ、他人の不幸を心のどこかでいつも望むようになっている。薄汚れたヒターノ(ジプシー)の物乞いがもらっている小銭にも本気で嫉妬心がわく。どんどん心が小さくなっていく。
 僕たちが暮らしているこの地球では毎日悲劇的な出来事が起こりつづけている、なんてことはもちろん知っている。でもなんで貧乏と失恋ってこんなにもつらいんだろう。

 今年の冬休みはリカルドに会いに行く。彼は労働許可を取ってマジョルカ島でバルを経営している。僕も今後自分で店を持ちたいと思っているが、本当に可能なのかどうか、いろいろと話を聞いてみたいと思う。

2005年12月28日(水)

 リカルドはマルベージャからマジョルカに引っ越した後も、あいかわらずあちこち仕事に行っていた。
 これまでにも何度か連絡するたびに、「これからオーストリアのホテルで働くんだ」とか「今、イビサ島にアルバイトに来ているよ」とか言っていた。あいかわらずフットワークが軽い。
 そんな彼が無事労働許可を取得して、一年位前からマジョルカ島でバルをはじめた。

 二十五日の夜に僕はバルセロナの港から船に乗って、マジョルカ島のリカルドを尋ねた。
 旧市街の中の小さな一LDKに彼は一人で住んでいて、お店は町の中心地から少し歩いた海沿いのホテルの一階にあった。
 一階の客席と外のテラスがそれぞれ十六席くらいの小さなバル・レストラン。二階にもスペースがあって整理すれば客席に使える。
 場所柄お客さんのほとんどはドイツ人などヨーロッパからの観光客。料理は普通の地中海料理や洋食のほか、お寿司やテリヤキなどの和食、タイ料理やメキシコ料理などほぼ何でもありで、彼がコース料理やその日のメニューを組んでいる。
 労働許可を持っていなかった彼は、お金はいらないから毎日二時間ずつ手伝わせてほしいと言ってお店の調理場に入ったらしい。当時のオーナーといくらかもめた後、冬のシーズンオフの間店を閉めるので、やりたければ自己責任で勝手にやればいいと店の鍵を渡された。
 そこから一人で全て立て直して、お店を譲り受けることになった。当時の彼の全財産は二〇〇ユーロで一ユーロ一六〇円として約三二〇〇〇円、店を居抜きで買い取って独立するのにかかった借金が十二万ユーロで約一九〇〇万円。今では順調に返済できているらしい。
 大変なのは借金を返すまでだけど、毎日の労働時間に一年間の売り上げ額など、聞いているだけで本当に疲れる。僕にできるだろうか。

 朝から歩いて丘の上のベルベール城に行く。昨日までは重たい雲が空を覆っていて、たまに雨がぱらついていたが、今日は湿度がまだ高いけど青空が広がり天気がいい。丸いお城の上から見下ろす小さな街の景色が気持ち良い。
 街に下りてお昼ご飯を食べる。たまたま入った食堂は観光客でいっぱいで、スイスの国旗の入った団体ツアーのシールをつけたおじさんと相席になる。そのお店は一九二〇年代に建てられたようで、内装も博物館みたいに古い。スイス人のおじさんはずっと独り言をしゃべりながらご飯を食べていた。

 リカルドは、クリスマス期間中は忙しいらしく毎日家に帰るのが遅い。
 今日は夕方から彼のバルに顔を出して話を聞く。今夜の予約は三組で、六人六人二人、これで一階はほぼ満席。午後七時ごろお客さんが入りはじめたので、僕はリカルドの部屋に帰ることにする。
 外はいつの間にか真っ暗になっていて、海に面したバルからは暖かい灯りが白く塗られた壁を照らして外にもれている。
 僕もがんばろうという気持ちになる。
 砂浜によせる波の音を聞きながら、真っ暗な夜の海沿いを歩いて帰った。

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