2006年目次

icon1月8日
icon2月12日
icon3月12日
icon4月14日
icon4月17日
icon4月24日
icon5月2日
icon5月8日
icon5月21日
icon6月24日
icon7月6日
icon7月9日
icon8月6日
icon8月10日
icon8月28日
icon9月30日
icon10月29日
icon11月26日
icon12月24日

2006年1月8日(日)

 大晦日の夜はエバの家で過ごす。数人の友達が来ていたが、子供たちがいないので去年と比べてずいぶん静かだった。
 クリスマスの休み中、僕はマジョルカ島へ行ったほか、アキコさんやエイコさんなどと久しぶりに会う。
 お店は三日が仕事始め、スペインでは一月六日までクリスマス期間なので、まずまず忙しい。

 今日もエバの家に行くと、ケンジさんが日本から帰ってきていた。約一年間日本で暮らしていたが、向こうでの生活も大変らしくて、同じ大変なのであれば自分の好きな街でもう一度がんばってみようと考えたらしい。これからまたバルセロナで仕事を探す予定だ。てっきり僕はそういうことも含めた上で、日本帰国を決断したと思っていた。でも、家族で一緒に生活するのはやっぱりいいことだ。

 ユリさんは栃木の実家で子供を見てもらい、週四日間午前六時からアルバイトをしていて、パン作りとお菓子作りの奥の深さに最近すっかり夢中になっている。良い出会いがあってよかったと思う。

 ユキは今日、十四歩も歩いて自己最高記録を打ち立てた。彼は誰にでも愛想がよく、最近プールに通い始めたが全然水を怖がらずに遊んでいるらしい。

2006年2月12日(日)

 先日、カタオカで契約している法律事務所に行ってビザの相談をした。
 ユリさんとユキの家族ビザは、まず僕の労働許可の一度目の延長手続きをしないと取れないらしい。つまり今年の夏以降でないと申請できないということになる。
 それと、今の僕の労働許可証は、会社に勤務して働くためのものなので、最初の五年間は独立することははできないらしい。リカルドは「大丈夫、大丈夫」って言ってたけど、どういうことだろう。
 今年の夏ごろに、ユリさんたちがスペインに戻って来て一緒に生活できるかと考えていたけど無理だろう。早くて今年の年末、遅ければ来年になりそうだ。

 ユリさんとは毎週電話で話をしている。日本の栃木での生活も実家とはいえ居候なので、狭いマンションで子育てしながらでは快適なものではないらしい。バルセロナでいた頃は日本に帰りたいと言っていた彼女が、今はバルセロナに戻りたいと言っている。バルセロナに戻ってきてなんて言うかは当然想像がつく。
 できれば今年中に小さな店をはじめて、家族ビザをとって三人で暮らせればいいなと思っていたけど、家族ビザはまだまだ時間がかかりそうだ。今住んでいる部屋は二人で住むにはちょうどいいけど三人で住むには狭すぎるので、先に引越しをしようかと僕は考え始める。

 今日はエバの家に行き、ケンジさんたちと少し散歩してみんなでお昼ご飯を食べる。今後自分で店を出したいと考えているが、今の僕の労働許可では独立することはできないらしいので、数年の間エバに名義を貸してもらえないだろうかと相談してみる。

2006年3月12日(日)

 今年に入ってからインターネットで飲食店の中古の物件を調べていたが、一時中断してピソ探しを始めた。
 今住んでいる部屋が一LDKで家賃五五〇ユーロ、場所も便利だしカップルで住むならちょうどいい広さだ。そしてこれから探す部屋は家族三人で余裕を持って生活ができる二LDKか三LDKくらいで、予算が月六〇〇ユーロ。前回の部屋探しと違って時間はまだまだあるので、候補地の範囲を広めにとり、腰をすえてなるべく数多くの物件を見ていくことにする。仕事の合間に毎週何十件も電話をかけて、数件は実際に見に行く。日曜日にはこれまで行ったことのないバルセロナ市周辺の住宅地を実際に歩きまわったり、自転車で見てまわる。

 今日はノウ・バリスとサン・アンドレウ周辺を自転車でうろうろしながら、貸し物件の張り紙に書かれた電話番号をメモしてまわるが、こうして実際にあらためて見てみるとこれまで持っていたイメージとずいぶん違うことがある。同じ地区でも通りを一本隔てて雰囲気ががらりと変わるし、季節や天候でも印象はかなり違う。
 手取り九〇〇ユーロの収入で家賃六〇〇ユーロの部屋を探すのも無謀だけど、前回と違って時間があるのでいくらかは気持ちにも余裕がもてる。

 夜はユリさんと電話。僕の話し方がえらそうに聞こえたようで、彼女はずいぶん腹を立てている。実家とはいえ、居候状態の子育ては彼女にとってもストレスなんだろう。家族ビザがおりなくても、ユキをつれて数か月間スペインに夏休みを過ごしにくるという提案を彼女から聞く。僕も賛成する。
 そのためにも夏までに僕は新しいピソを探して引っ越そうと思う。せっかくの夏休みを狭い今の部屋でユリさんといらいらしながら過ごすことになったら、何のための一時帰国かわからなくなる。

2006年4月14日(金)

 毎日部屋探しをする。もう十数件の部屋を見てまわった。問い合わせの電話をかけた件数は一〇〇件以上。
 ごくまれに『ペット、外国人お断り』というような表示の物件もある。ずいぶん露骨だなと思うけど、問い合わせの電話をかけてから明らかに気分の悪い応対をされるよりはずっといい。
 先月ノウ・バリスで一件気に入った部屋が見つかり必要書類を提出したけど、別の人に決まってしまった。不動産屋さんによると今回の敗因はやはり給料明細の額。
 そして先週もう一件、これならと思うピソが見つかり身分証のコピーなどをあらためて渡す。今回は不動産屋さんのアドバイスもあって、銀行の保証金の額を増やすことにした。ピソを契約して住んでいる間、僕はこのお金を自由に引き出すことはできなくて、もし家賃が払えなくなったらここから自動的に支払われる。

 今日不動産屋さんから連絡が入り、大家さんからOKがでたらしい。場所はノウ・バリス、一応バルセロナの市内だけど中心地からははずれていて、山から近く、まわりに緑の多い大きな公園がたくさんある。通勤時間は長くなるけど、人や車の多い都心部より子供と暮らすならこっちのほうが僕はずっと好きだ。
 比較的新しい住宅地の中にあるマンションの十階で二LDK、家賃は六五〇ユーロ。小さな部屋を子供部屋にして大きな部屋を僕とユリさんで使う。山に向かった広いテラスがあって、窓からは正面に山と広々とした空が見える。子供部屋の小さなベランダからは遠くに海まで見渡せる。ここなら子供が小学生になっても当分住めそうだ。すごく気に入った。
 直接不動産屋の事務所に行き契約に必要な書類の話を聞く。今週はセマナ・サンタ(復活祭の聖週間)のため今日から四連休にはいる。

2006年4月17日(月)

 今住んでいる部屋は家具付きなので、引っ越した先で使う洗濯機や冷蔵庫などを買い揃えなければならない。連休の間にショッピングセンターを見てまわる。今月末には何とか引越しができそうだ。

 今日は自転車で山へ走りに行く。そろそろ帰ろうかと思っていたとき、岩の段差をおりるのを失敗して頭から落ちてしまう。ヘルメットをかぶっていなかったので地面に打ち付けた頭から血が流れる。着ていたティシャツを脱いで頭にあてて、自転車を押しながら山のふもとの小さなバルまで歩き、救急車を呼んでもらう。ミネラルウォーターをくれたり、みんな親切にしてくれる。なかなか出血は止まらない。
 三十分ほどすると救急車が着き、消毒と止血をして病院に連れて行ってくれる。自転車はバルで預かってもらう。
 病院ではすぐに麻酔をして縫ってくれる。頭のてっぺんの少し横を合計九針。最初の数針は麻酔が効いていたけど、後半は全然効いていなかった。針を刺して、糸を通して、皮膚を引っ張っているのが見なくても全部わかる。「痛かったら言ってね」と言われていたので、「いっ、痛いです」と言う。
「もう少しで終わるわよ」
 若い女医さんは笑顔で答える。
 実際すぐに終わり、最後に破傷風のワクチンを打っておしまい。全ての治療がびっくりするくらいあっという間に手際よく終わる。
「もう終わりですか?」
 僕は傷口にガーゼも当てずに血まみれのティシャツを手に持って、上半身裸できょとんとして聞く。
「はい、もう帰っていいですよ」
 看護師さんはにこやかに答える。
 戸惑っていると使い捨ての手術用の前開きのシャツをくれる。血まみれよりはいいだろうと思い、それを着て帰ることにする。貧血のためか少しふらふらするが歩けないことはない。ゆっくり歩いて地下鉄に乗って帰ることにする。
 すれ違う人たちみんながこっちを見ている。驚いてじろじろ見る人もいれば、笑ってこっちを指さしながら連れの人に話をしている人もいる。白人の観光客が僕の写真を撮っている。めまいがして一歩ずつ歩くだけでも大変なので、まわりにかまっていられない。
 ショーウィンドウの鏡にうつる自分の姿を何気なく見てみると、坊主頭には生々しい縫い痕がむき出しで、病院の薄い緑色のシャツを着て、血のついた布を手に持って靴にも血がついている。退院してきたようには見えない。どう見ても病院の手術室から脱走してきたみたいだ。
 僕は少し苦笑いして、ふらふらしながら地下鉄で家に帰って、シャワーを浴びて寝た。でも痛みであまり眠れなかった。

2006年4月24日(月)

 怪我をした翌日出勤するが、十分以上歩くと息切れがして、三十分以上立っているとめまいがする。休みながら通勤して、休みながら仕事をするが当然仕事にならない。
 夜は痛み止めを飲んで寝る。一応一日ごとによくなっている。

 昨日の日曜日、エバとネパール料理屋に晩ご飯を食べに行った。
 エバとケンジさんはとうとう正式に結婚する。これまで彼女の希望で籍は入れないまま家族として暮らしてきたけど、ケンジさんのビザの問題で籍を入れることになった。結婚すればすぐに五年分の居住許可が出て、スペイン人と同じように働いたりする権利が与えられる。就職活動をして労働ビザをとるよりも、手続きも比較的簡単で確実に許可もおりる。
 でもエバは気がすすまないらしい。これまでも四年間結婚せずにパートナーとして協力し合ってきたわけだから彼女なりの理由もあるんだろうけど、結婚手続きをしなければケンジさんはスペインで住めない。
 最初はこれがマリッジブルーというものなんだろうかと思ったので、ネパールカレーを食べながらなだめていたけど、ずいぶん本気で嫌がっているようなので、「ケンジさんや家族に説明して少し結婚式を延期してもらったら?」と言っておく。いやならやめればいいとも言えない。
 以前依頼した、将来お店を出すときに名義を貸してほしいという話はやんわりと断られる。自分の結婚もしたくない人だから、書類や手続きに縛られるのが本当に嫌いなようだ。

 僕たちが店から出ると、手をつないだ男性二人が前を歩いていた。一人はスペイン人で、もう一人は髪が栗色でたぶんヨーロッパのどこか別の国の人のようだった。
 田舎の小さな街ではどうか知らないが、バルセロナでは男性同士や女性同士のカップルをたまに見かける。レインボーフラッグ(同性愛者の虹色の旗)を見かけることもある。リカルドが言っていたけど、最近スペインでも同性愛者の結婚が法律で認められるようになったらしい。おそらく婚姻手続きをするためにスペインへ移住してくる外国人もいるだろう。もしかすると日本人だっているかもしれない。その男の人たち二人は小さな広場に並べられたバルのテラス席に座って、街路樹の木漏れ日の下で見つめ合っていた。
 まったく同じことをするにも、することのできる幸せと、しなければならない不幸せ。エバと別れて歩きながら、僕はぼんやりとそんなことを思った。

 今日は朝からエバの家に行って、みんなでタクシーで役所に行く。エバの家族とケンジさんの友人たちが見守る中、エバとケンジさんとそれぞれの証人とが手順に従ってサインをする。昨日あれだけ嫌がっていたエバにも笑顔がみえて、僕は一人で安心する。その後みんなで食事会があり、僕も参加する予定だったんだけど病院に行かなければならなくなったのでここで別れて帰る。
 これまでも労働ビザなどの問題で別居と同居を繰り返してきた二人だけど、三歳のアリシアちゃんのためにもこれからうまくいけばいいなと思う。

 今日は病院で抜糸をしてもらう。怪我をしてから数日がたってだいぶよくはなったけど、まだ調理場での立ち仕事は無理なので傷について相談する。僕は怪我をしてから今日までの体調をお医者さんに説明する。最初は立ちくらみやめまいや息切れがひどいので頭を打ったための障害じゃないかと心配していたけど、数日で少しずつよくなっているのでたぶん何日か休めば元通りになるんじゃないかと思う。
「でも、まだ歩いたり立っていたりするだけでめまいがするんです」
「へー、なぜ?」
「いや……それを聞くために今日は来たんですけど……検査をしてもらえませんか?」
 まさかお医者さんに聞き返されるなんて全く想像していなかったから僕は驚いて答える。心電図とかレントゲンとか何か検査らしいことをしてほしいと思っていたんだけど。
「検査は必要ないよ。傷は全く異常ない」
 お医者さんは断言する。
「僕は調理場で働いているんですけど、これじゃ仕事にいけなくて困っています」
「立ってられないんじゃ、料理人は無理だな。別の仕事を探せば?」
 面倒くさそうに彼は言う。これじゃ検査どころじゃない。何を言っても診てもらえそうにない。何とか食い下がって診断書を書いてもらう。お医者さんは舌打ちしながら書いてくれる。これがあれば仕事を休んでいる間、給料の一部分が支払われる。
 カタルーニャ人が相手なら、この人もこんな対応はしないんじゃないだろうか。そんな気がするのは勝手な被害妄想だろうか。僕がアジア人ではなくフランス人やイギリス人だったとしたらどうだっただろう。
 こういうことはスペインで住んでいたらそんなに珍しいことでもない。気にしないように自分に言い聞かせるが、病院を出た後も一日腹立ちがおさまらない。医者に言われた言葉に対して、そしてはっきりと言い返せなかった自分に対して。もっと言い返していたら何か変わっていただろうか。

2006年5月2日(火)

 病院の診断書をホルヘに渡してきたので当分の間は堂々と仕事を休める。全く動けないわけでもないので毎日引越しの準備をする。
 冷蔵庫と洗濯機をショッピングセンターで買う。今住んでいる部屋を解約する。全ての荷物をダンボール箱に梱包して、手で持てるものは運んでおく。
 これまでも普段使わないものを少しずつ段ボール箱に詰め込んでいたが、意外と荷物の量が多くてびっくりする。二人で暮らし始めて、子供ができてから身の回りのものがいっきに増えた。

 今日はレンタカーを借りて、ケンジさんとその友人のタカヒロさんに手伝ってもらい、ペーパードライバー三人で荷物を全て引っ越す。
 早起きして車を借りに行くが、レンタルの手続きに手間取って十時半ごろにようやくレセップスのピソに着く。生まれてはじめての左ハンドル、道路の幅も狭く、久しぶりの車の運転が怖い。
 僕が部屋からエレベーターいっぱいに荷物を載せて下におろし、ケンジさんとタカヒロさんの二人で車に積み込んでいく。一時間程度で全て積み終わるが荷物の量は思っていたよりも多く、余裕があると思っていた広い荷台は天井まで段ボール箱でいっぱいで、助手席の足元にまで荷物を載せる。
 今度はノウバリスの引越し先に移動する。大きなルノーのワンボックスは車線の幅ほぼぴったりで対向車とすれ違うのが怖い。ケンジさんに運転を代わってもらったら三十分くらいの道のりで二十回くらいエンストして、目的地について自動車の後部を見たらバンパーに知らないナンバープレートがひっかかっていた。追突されたときにはさまってそのまま持ってきたようだ。なくした人は今頃困っているだろう。
 近くの路上に車を駐車して、少しずつエレベーターに荷物を載せて部屋の中へ運び込む。一時間半ほどで終わる。レンタカーを返却して、三人で遅いお昼を食べる。一人ならとても一日で終わらなかっただろう。
 僕は新しい部屋に帰って、少しずつ荷物の整理をする。無事に引越しがすんでよかった。これからここでまた新しい生活がはじまるけど、早く収入を何とかしないと今のままでは家族三人で生活できない。

 窓の外には潅木がまばらに茂った山が見渡せて、右側のほうにいくとそれが住宅地になりずっと遠くで水平線になる。やしの木の並んだ大通りを見下ろすとバスが走り出すのが見える。広い歩道にはお年寄りと子供が多く、外国人は見当たらない。僕は小さなユキをつれて通りを歩くユリさんの姿を思い描いた。

2006年5月8日(月)

 不動産屋で受け取った契約書を持って、住民票や社会保険の住所変更手続きをする。
 段ボール箱が天井までいっぱいの部屋を少しずつ整理する。今回はADSLをつないで固定電話とインターネットが使えるようにした。これまではロクトリオ(インターネットや国際電話などができる店)を使っていたので、自宅でできるようになればずっと便利になる。日本にいるユリさんともテレビ電話で話ができる。

 体調はもうだいぶよく、立ったり歩いたり日常生活には支障がない。傷口もきれいにふさがっているが、まだ少し腫れていて頭の形が左右不対象のままだ。
 今日は朝から病院に行く。診てもらっても毎回大丈夫としか言われない。たぶん大丈夫なんだろうけど。二時間待って治療が終ったという書類を一枚出してもらい、今日から職場に復帰する。
 僕が休んでる間忙しかったのだろう、冷蔵庫の中が大変なことになっている。冷凍庫の仕込みストックもほとんどない。
 また今日から毎日仕事の日々が始まる。

2006年5月21日(日)

 引っ越したばかりの部屋には段ボール箱が積んだままで、なんだかまだ落ち着かない。普段は毎日仕事なので、僕が家でゆっくりと過ごすのは日曜日だけだが少しずつ整頓する。

 先日の水曜日、サッカーのヨーロッパチャンピオンズリーグの決勝戦があり、バルサ対アーセナルがパリで行われ二対一でバルサが勝って優勝した。
 バルサの試合があるときはフェルナンドが必ず調理場でラジオをつけているが、ノイズと一緒に流れる早口のスペイン語についていけず、僕はいつも試合経過を教えてもらっている。前半に一点を入れられた後の後半同点に追いつき、終了間際に逆転。
 仕事を終えて店から外に出ると自動車はあちこちでクラクションを鳴らし、遠くで花火の音が聞こえる。プラットホームで地下鉄を待っていると、聞いたことのないような大きな音の警笛を鳴らしながら電車がホームに入ってくる。街の中心へ向かう大勢の人々は全員で歌をうたい、車両がゆれるほど飛び跳ねる。ユニホームを着た若者たちや子供連れ、老若男女がうれしそうにカタルーニャ広場に向かっていく。見ているこっちまでなんだか元気になる。もちろん興味のなさそうな人たちもいるが、きっとマドリーファンやエスパニョールファンだろう。

 毎週ユリさんと電話で話をしているが、今日はユリさんが箱根へ旅行に行っているためお休み。
 お昼過ぎから僕は自転車で山に走りにいく。これまで走っていたルートからは遠くなったけど、こちら側も人通りの少ない山道がたくさんあり楽しい。天気がよく、青い空と白い雲が気持ちいい。

2006年6月24日(土)

 今日はサン・ホアン(夏至のお祭り)で仕事は休み。
 エバが引っ越したという話を聞いていたので遊びにいく。パニテンツ駅のそばで家賃は一三〇〇ユーロ、一〇〇平方メートル以上はありそうな4LDK。山に近いこのあたりは家賃の高いマンションが多いが、治安もよく環境はすごく良い。周囲にはきれいな森があって、夜になるとすぐそばの山から猪が下りてくるらしい。テラスからはバルセロナの街が海まで見下ろせる。家賃が高いようだけど、やりくりできるんだろうかと僕は少し心配になった。
 エバとケンジさんとはあまりうまくいっていないようで、彼はまだ以前のピソで一人で住んでいるらしい。そちらの部屋も契約が切れればまたすぐ一緒に生活するようになるんだろう。
 アリシアちゃんはあいかわらず元気で、彼女を見ていると、これからまたユキと一緒の生活がはじまるんだなと実感がわいてきた。

2006年7月6日(木)

 交替で毎週半日ずつとっている休みを木曜日の夜にもらって、僕はユリさんとユキをプラット空港へ迎えにいく。仕事から帰った後、簡単に部屋の掃除をして、買い物にいき三人分の晩ご飯を一応つくっておいた。
 メトロ(地下鉄)の工事のため臨時バスに乗るが時間がかかり、空港に着いたのが夜の九時半ごろ。八時半到着予定の飛行機も遅れて、表示板では九時十五分到着になっていた。でももう着いているはずなので、ロビーを探して到着出口で待っているがなかなか出てこない。十時過ぎになってようやく、ユリさんはほっぺたを赤くして、汗をかいてくせっ毛をもじゃもじゃに逆立てた一歳半のユキを抱っこして出てくる。
 二日前に北朝鮮が日本に向けてミサイルを発射したため、検査が厳しくなり荷物を受け取るのに時間がかかったらしい。
 空港内のカフェで水とボカディージョ(バゲットのサンドイッチ)を買って休憩する。ユキは眠そうにあくびをして水を飲んでいる。一応僕のことは覚えてくれているようだけど恥ずかしそうで、緊張しているらしくおとなしい。
 バスとタクシーを乗りついで家に着いたのは夜中の一時。ユキは車の中からずっと寝たままで、僕とユリさんはカバ(カタルーニャの発泡ワイン)を少しだけ飲んだ。

2006年7月9日(日)

 今日はユリさんとユキと三人で日本食レストランにご飯を食べに行く。彼ら二人は日本から着いたばかりだし、僕も別に日本食がこいしいわけではないけど、これからお店を持ちたいと考えているのでいろんな店を見ておきたいと思っている。僕とユリさんは将来はじめる店の料理や内装についてあれこれと話をする。
 ユキは巻き寿司のイクラが気に入ったようで一生懸命食べている。あまり食欲旺盛な子供ではないけど、好き嫌いは全然ない。

 その後エバに電話をして、グラシア地区のそばの以前住んでいたほうのピソへ遊びにいく。
 ケンジさんとアリシアちゃんもいて、ユリさんは日本からのおみやげを渡す。部屋の前の大通りにある児童公園でユキとアリシアちゃんを遊ばせた後、バルでクラーラ(ビールにレモンジュースを加えたもの)を飲む。帰りに子供用の小さないすと机と三輪車をもらう。来るたびにおさがりの子供用品をもらっているが、お金がないので大変たすかる。

 夜七時過ぎに家に帰ってくるがユキはすぐに寝てしまう。少ししてユリさんも寝て、僕はうたた寝しながらサッカーのワールドカップをテレビで見る。イタリアとフランスの決勝戦はPK戦のすえイタリアの優勝。ジダンは頭突きで退場。

2006年8月6日(日)

 今日から夏休み。
 先々週から地下鉄工事がはじまったため、僕は毎日自転車で通勤している。山の近くにある家から職場まで、行きは三十分くらいで着くが帰りは一時間かかる。
 昨日は朝から体調が悪く、嘔吐と下痢が続いている。普段どおりの仕事を終えた後、全員で客席の机やいすを運ぶ。僕が家に帰ると夜中の二時をまわっていた。
 そんなわけで今日は一日中布団の中で汗をかいて寝る。

 ユキも先週の水曜日から体調が悪く、ユリさんは毎日病院に連れて行っている。金曜日になってようやくお医者さんは薬を処方してくれた。嘔吐がひどく数日間全く食事を取れずにいたが、薬のシロップを飲ませて少しよくなる。
 昨日からの僕の病気もたぶん彼からもらったものだろう。一日中寝て過ごすと夜にはだいぶよくなる。
 僕は仕事があるので、ユキを病院に連れて行くのはユリさんだが、病院に行き、子供の症状を説明し、納得のいく対応をしてもらうまでの道のりは意外と長い。スペインの人たちはみんな、いかにひどくてつらいかを身振り手振りを加えて大きな声で主張する。僕もユリさんも自己主張が大変苦手なので、家を出るときから言うことを用意して行くが毎回エネルギーを消耗する。
 日本の病院だと「こんなにひどくなるまでほうっておいて」と叱られることがあるけど、熱を出してせきをしている子供をスペインで病院に連れて行っても「もう少し様子を見て、ひどくなったらつれてきて」と何もせず言われることもある。
 ユキの体調が悪くなるとユリさんの機嫌が悪くなり、今日も非常に悪い。

2006年8月10日(木)

 今年の夏休みは一年ぶりに家族三人で一緒に過ごすので、引っ越したばかりの部屋に必要なものをそろえたりしながら、三人でスペインでの生活を楽しみたいと思う。
 僕の仕事が夏休みに入ってからは、毎日三人で水族館に行ったり買い物に行ったりしている。これまでに、テーブルといすのセットや掃除機やランプなどをユリさんと一緒に選んで買った。

 今日は海へ行く予定で、ユリさんは朝のまだ薄暗いうちからお弁当をつくってくれたが、日が昇っても空は厚い雲に覆われたまま今にも雨が降り出しそうな天気なので中止にする。
 お昼前になって少し晴れてきたので、そのお弁当を持って動物園に行くことにする。
 ユキは歩くのが大好きでよく歩く。一緒に走るとげらげら笑いながら走ってついてくる。バスや電車などの乗り物が好きで飽きずに見ている。誰かに教えられたわけでもないのに、自然に男の子になっている。道端の工事現場をいつまでも見ている。
 虫が嫌いで小さなハエでも飛んでくると声を上げて怖がるが、動物はいつまでも飽きずに見ている。ライオンやトラは寝そべったまま動かないが、クマやサルはたくさんの人の目を意識してか、たえず何か動きがあって大人が見ていても楽しい。
 ユキを肩車して一つ一つの動物を見て歩く。たまに下ろして一緒に歩いたり走ったりする。
 ベンチで休憩して、ユリさんが準備してくれたお弁当を食べる。数種類のおにぎりと卵焼きとサラダ。ユリさんがつくる料理はいつもおいしい。ユキは顔中どころか、頭のてっぺんから足の先までご飯粒をつけておにぎりをほおばる。
 曇り空は一日持ちこたえて、ユキは帰り道のベビーカーの中で寝てしまった。

2006年8月28日(月)

 レンタカーでオペルのコルサを借りてきて三人でドライブに行く。アンドラ公国(ピレネー山脈にある小さな国)まで行こうかと思っていたけど、遠いので地図を見てあきらめる。
 モンセラット(修道院があるカタルーニャの岩山)のそばの山のふもとの小さな村をいくつかまわる。村には小さな教会があって、石畳の入り組んだ路地があり、小さな広場がある。僕たちは小さな公園のベンチでお弁当を食べる。日差しは強いが、木陰は涼しい。
 村のはずれには小さな農園があってロバやアヒルがいる。
 ユキを肩車して森の中のハイキング道を歩いていると、寝てしまったようなので車に戻る。のんびりドライブをしながらバルセロナまで帰ってくる。

 この八月は毎日家族三人で過ごしている。海に行ったり、買い物に行ったり、水族館にいったりした。三人でいる間くらいはユリさんとユキに楽しく過ごしてほしいと思う。
 一年前、はいはいしていたユキは今元気に走りまわっている。次会うのはたぶん来年だろう。
 でも今の収入ではとても家族三人で生活できない。来年までに僕は何とかしなければならないが、さあどうしよう。

2006年9月30日(土)

 九月に入りまた仕事が始まった。僕は日曜日以外は家に寝に帰るだけで何もできなくなる。
 ユリさんはフランスの友人のところにユキをつれて遊びに行ったり、近所の公園でユキを遊ばせたりして暮らす。

 今年の夏は雨が多く、天気が悪くなるたびに喘息もちのユキはせきが止まらなくなる。夏が終わりに近づいて季節の変わり目になると、やっぱり喘息の発作が頻繁に出るようになる。彼の体調が悪くなるとユリさんの機嫌が悪くなる。そうなると僕は近寄れないし話しかけることもできない。昨日ユリさんはいらいらのあまり水洗トイレのふたを叩きつけて、タンクにひびが入った。
 日本での子育ては彼女にとってかなりのストレスのようなので、ここにいる間くらいは楽しんでほしいと思う。一年ぶりに家族三人で過ごすのだから仲良く生活したいと思う。でも、やっぱり難しい。とにかくお金がない。
 僕はこれから自分で店を出したいと思ってはいるけれど、本当に出せるのかもわからないし、出したからといって生活していけるのかなんて全くわからない。これからの僕たちの生活を約束するものが何一つない。

 今日の夕方約三か月のスペイン滞在を終えて、ユリさんとユキは日本に帰る。僕なりに一生懸命彼らと接したつもりだったけど、不機嫌なユリさんの様子を見る限り十分ではなかったようだ。
 それでも三人で過ごせたのはきっといいことだったはずだと僕は思う。

2006年10月29日(日)

 また一人暮らしの生活がはじまった。ほこりがたまるので子供のおもちゃや布団などを片付ける。
 十五年間毎日欠かさず二十本以上吸い続けてきたタバコを一か月前にやめた。特に考えがあったわけではなく、「最近せきが止まらないので、数日間吸うのを控えてみようか」と思い立っただけなのだが、意外とあっさり最初の数日間をやり過ごせたのでそのまま禁煙することにした。「もう一日我慢してみよう、禁断症状が出たら無理せず吸おう」と思いながら今でもいつも通りタバコとライターを肌身離さず持ち歩いて、ガムをかみ続けている。
 今年から公共の場で禁煙になることがスペインの法律で決まり、自然と吸う本数も減っていたのと、この夏の間ユキと一緒にいて、タバコの煙は彼の喘息にもよくないのだろうと思っていたから、いい機会だと思う。

 焼き場で働いていたパウラは七月からずっと病気で休んでいて、先月でカタオカの仕事をやめた。「どうも気分がよくないらしい」というふうに聞いたけど、ずいぶん長い間休んでいたわりに病名ははっきりしない。
 フェルナンドが言うには、仕事を休むための病院の診断書は、「頭が痛い」とか「気分が悪い」とか言えばそれだけで簡単におりるものらしい。
 僕は頭を怪我して書類を書いてもらう時のお医者さんの対応を思い出した。

 今日から冬時間にかわる。日が沈むのが早くなると急に冬が近づいたような気がする。
 自転車で山に走りに行く。カタオカの仕事だけで全然余裕がないので、まずは体力をつけようと思う。

 家族ビザの書類を提出するための予約が取れる。日付は来年の二月。それから許可がおりても、二人がスペインに来ることができるのは春以降だろう。

2006年11月26日(日)

 十一月になって街には少しずつクリスマスの飾りつけが出てくる。
 僕は少しずつ買っておいたカバ(カタルーニャの発泡ワイン)やトゥロン(アーモンドのお菓子)などを小さな小包にして大阪と栃木に送った。プレゼント代が二つで七十ユーロ、送料が一一〇ユーロ、合計一八〇ユーロ。本当はもっといろんなものを送りたいけど、いまの僕にはこれで精一杯だ。

 電話会社の営業の人から「電話番号そのままでうちの会社で契約しませんか」という電話がよくかかってくるが、今日の人はしつこい。いくら断っても、「弊社の料金プランはどれだけお徳です」ということを説明してくれる。日本から来てすぐの頃はなんにでも興味があったけど、今はスペインの企業があまり信用できないので面倒なことはなるべくしたくない。間違った電話料金を自動的に引き落とされていたり、解約しようとしても簡単にはできなかったり、そんな話をよく聞く。
「なぜ? こんなに安いのに。あなた本当にスペイン語わかってるの? ちゃんとしゃべれる人とかわってちょうだい」
 今の状態で不満はないので変える気はないと言ってもなかなか理解してくれない。
「だから内容が同じでこっちのほうが安いってせっかく私が教えてあげているのに、あなたちょっとおかしいんじゃないの?」
 めんどくさいので無理に電話を切ったらすぐにかけなおしてきた。「なんで話の途中で電話を切ったの?」と甲高い声で言ってきたので説明しようとしかけたら切られた。なんなんだ。
 スペイン語のアクセントが南米の人のようだった。スペインではたくさん南米人がいる。そういう人たちから僕は、スペイン語もろくに話せないアジア人として見くだして扱われることがある。日本人であるということがわかればたいていきちんと対応してくれる。南米の人たちもスペイン国内では差別されていて、そのためにスペイン語を母語として話せないアジア人などを差別しようとするんだろうかと僕は想像する。

 カタオカはクリスマスが近いからかグループ客が多くなり忙しくなってきた。
 今日も自転車でコルセローラの山へ走りに行くが、山頂の遊園地と教会の周りは車がいっぱいでにぎわっていた。遊園地の乗り物のなだらかなリズムにのって大きな歓声が聞こえてくる。

2006年12月24日(日)

 今日からカタオカはクリスマス休み。ゆっくり寝た後、いつもの日曜日のように掃除や洗濯をする。
 連休の初日というのは、本当に静かな気持ちになる。みんながこんな状態なら争いごとも犯罪もなくなるんじゃないかと思うくらい優しい気持ちになる。心と体に余裕があるというのはすごいことだなとあらためて感じる。

 その後はスペイン語の勉強。今年の冬休みはスペイン語の勉強で使うことにする。長い間勉強なんかしていなかったので、新鮮で楽しい。
 毎日仕事に行けば話すことはほぼ決まっているので、意識して勉強しないと住んでいても語学力は上達しない。家に帰れば日本語でインターネットが使えるし、僕はスペイン人の友達が少ないのでなおさらだ。これから物件を探してお店を始めるためにも、もっと勉強しておかなければいけない。

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