スペインの青い空の真下で |
2009年目次
1月1日2009年1月1日(木)
店をはじめて二年がたち、また年が明けた。お店の売り上げは夏休みに入る前には黒字になり、何とか採算がとれるようになった。ホールと調理場に新しい人に入ってもらい、仕事を分担できるようになった。先月バイクを買い、特別忙しい日以外は家に帰って眠れるようになった。ユリさんが二人目の子供を妊娠して、今年の五月に女の子を出産予定だ。
まだまだ安心はできないし、明日どうなるかもわからない。今現在家族三人で生活していくのもぎりぎりなのに、四人になってやっていけるのかどうかもわからない。
でも、去年の今頃大変だった頃と比べてしみじみと、がんばってきてよかったなと思う。スペインに来て、はじめて本当に心のそこからほっとして一年を終えられた。
以前、毎月のように頻繁に詰まっていた下水管は、気がつけばほとんど詰まらなくなった。なぜかはわからない。
そして、毎月家賃を催促しにくる大家さんが必ず長い時間トイレに入っていたが、最近は全くトイレを借りていかなくなった。
関係があるのかどうかはわからないが、トイレを借りなくなった大家さんは僕に優しくなった。「どうだ、商売は順調か?」などと言ってにこやかに僕の肩を叩く。
スペインで生きていくためには、スペイン人に負けていてはいけないとこれまでずっと思っていた。言葉や法律、すべてがアウェイの中で生きていくためには彼らよりもずっと努力しなければならないと思っていた。日本を出てから眉間のしわがとれることがなかった。
でもこうして仕事が少しずつうまくいっているのもまた、スペインのおかげなんだろうなと思えるようになった。何もわからないままお店をはじめて、試行錯誤しながらここまでやってきたけど、シビアな日本の競争社会の中なら、最初つまずいたらそこから挽回するのは無理だったんじゃないかとも思う。
つらい思いをすることはたくさんあったけど、スペイン語でコミュニケーションを取れるようになり、スペイン人たちの感覚が理解できるようになるにつれ、周りの人たちとの摩擦は自然と少なくなった。日曜日やクリスマスには店を閉めて、夏には数週間の休暇をとって家族とすごすことができるのもスペインにいるからだろう。
今になってようやく肩の力を抜いて、スペインに来てよかったなと素直に思えるようになった。
今日は元日であおい食堂は休みなので、ユリさんとユキと家でゆっくりお昼ごはんを食べる。雑煮、昆布巻き、松前漬け、赤飯などをユリさんはつくってくれる。彼女の料理はいつもおいしい。もうお腹が大きいユリさんは家でどら焼きなどデザートの仕込みをしている。彼女は子供にも僕にも基本的には優しく、毎日家事に子育てに手を抜くことがない。
僕はユキと一緒に近くの公園に行く。四歳になったばかりのユキは、公園で遊んでいるほかの子供たちに自分から近づいていって一緒に遊ぶ。彼の言葉はカタルーニャ語とスペイン語が混ざっているけど、まずまず意思の疎通はできている。
帰り道で僕は彼の手を引きながら言う。
「ユキにももうすぐ妹ができるんだよ」
「うん、お母さんのお腹の中に赤ちゃんがいるの」
ユリさんから聞いているからちゃんと知っている。彼なりにきちんと理解できているようだ。
「ユキちゃんのお腹の中にはおばあちゃんがいるの」
でもなぜか自分のお腹の中にはおばあさんがいる設定になっている。
真冬の一日中低い太陽はもう山のそばへ近づきはじめていて、静かに浮いている薄い雲の下側を桜貝みたいなピンク色に染める。透き通った高い空には羊雲が並んでいる。
僕たちの人生は苦しみに満ちていて、それらは全て人間の欲望からやってくる。でも、人間の生きる意味も生きる力も、やっぱり欲望の中からしかやってこない。
苦しいことがあるのも、悲しいことがあるのも、それ自体は悪いことではないのかもしれない。自分が選んだ道にあるそれらはいつか必ず幸せにつながっていくと思う。だとすれば恐れるべきことはつらい苦しみではなく、自分で選択をしないということ、またはできなくなるということ。
終るためにはじまるわけじゃなく、別れるために出会うわけじゃなく、すべては確実につながりあいながらどこまでもどこまでも続いている。
今日見上げるこの広い空で。くるくると回る地球と一緒に。
おわり
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