まえがき

 なぜ私が海外で生活しようと思い立ったかを説明するために、私の経歴を簡単に自己紹介させていただきたいと思います。興味のない方は読みとばしていただいて結構です。

 私の場合、きっかけは山でした。

 中学、高校のころの私にはたくさんの白髪がありましたが、そういう体質なんだろうと別段気にもせずに、人見知りで引っ込み思案な私は大きな出来事も特にない普通の学生生活を送っていました。
 高校を卒業した後大学へ進学した私は、実家を出て一人暮らしをはじめ、山岳部に入部しました。そこではじめた登山は、それまでの自分に欠けていた部分に驚くほどぴったりとおさまりました。私は山を登ることによって自分の存在を確認し、それまでわからなかった身のまわりの物事をひとつずつ理解していきました。それは『理解する』や『気づく』というよりも『思い出す』と言うような感覚で、するすると目の前に開けていきました。
 そして、気づいたときにはそれまであった白髪もほとんどなくなっていました。環境や食生活の変化と関係があるのかな、などと当時は考えていましたが、今ならはっきりとわかります。高校生だった私の頭にたくさんあった白髪の原因はストレスです。何不自由なく家族と生活し普通に高校へ通う、ただそれだけのことでストレスという言葉の意味もよくわからない十代の私の髪の色は落ちていたのです。
 私にとっての山は人生の出発点であり、全ての原点です。

 大学での私は授業もろくに出ずに、一年中山登りばかりしていました。山に登ることを通して身についた物の感じ方や考え方は今でも私の中に生きていて、人生のすべてに影響を与えています。
 目標を設定するために一番重要なのは自分の中にあるドキドキワクワク。これがなければ何もはじまりません。そして実際に行動にうつす過程で大切なのはイメージ。ほかのすべてがあっても、イメージできない目標は達成されることはないと思います。想像力の限界はその人の可能性の限界です。
 四回生のときに大学を休学して、アフリカ遠征とネパールヒマラヤ遠征に行きました。これが私にとって初めての海外旅行です。
 それぞれ三か月ずつだったのですが、帰国してからなぜか日本に対して嫌悪感が沸いてきました。独特の閉塞感、たくさんの見えないルール、足の裏からゆっくりと沈み込んでいき気がついたら身動きが取れなくなっているような感覚に息苦しさをおぼえました。このころから漠然とですが、いつか海外で生活できればと考えるようになりました。

 大学を卒業した私は潜水士になりました。これまで登っていた山とはまったく違うジャンルで、人と自然との接点になるような職業につきたいと思ったからです。登山が私にたくさんのものを与えてくれたように、海にもぐることを通してまた何かを得ることができるんじゃないかとも思っていました。ダイバーの仕事は幅広く、危険を伴う過酷な肉体労働ですが、毎日が刺激的で二十代前半の私には楽しい職場だったと思います。しかし水圧で耳の鼓膜を一年のうちに何度も破り、体質が合わないのだろうと三年もたずにやめてしまいました。

 突然仕事をやめることになった私は、一人で南米のアンデス山脈に山を登りに行くことにしました。毎日海に潜っていたのでまた山に登りたくなった、と家族や周りの人には言っていましたが、一人でゆっくり今後の人生について考えたかったのです。
 ボリビアで標高六〇〇〇メートル前後の山を五つくらい登った後、ロサンゼルスから日本へ飛ぶための一年オープンのチケットを持って少しずつ北上しました。お金もあまりなかったので観光地にはほとんど行きませんでしたが、海外で暮らすことについて、また外から見える日本について考えるには、貧乏な旅は性にも合っていましたし都合がよかったと思います。
 スペイン語もまともにしゃべれなかったのですが、メキシコの日本食レストランでウエイターのアルバイトをしました。これが私の生まれてはじめての飲食業の仕事です。食文化や言葉など、自分の中にしみこんでいる『日本』は一生消えないと旅の過程で感じていた私には興味深い職業に思えました。

 一年ぶりに日本に帰国してから、実家には戻らず日本国内を旅しました。海外を見るのと同じ目で日本を見たいと思ったからです。今回は、いい国だと思いました。物事はきちんと機能し、善意をもった人たちがたくさんいます。
 実家に戻って家族に挨拶した後もう一度、今度は住む場所を探すために日本国内を旅しました。人間が生きるために本当に必要なものは誰もが考えるほどそうたくさんはないと思っていた私は、できるだけゼロに近い状態で生活して自分にとって何が必要なものなのかを考えてみたいと思いました。
 人間が生きるために必要なもの、まず第一に空気、その次に水、そして食べ物、家族や友人など基盤を共通とする人たち。すべて当たり前のことですが、山を登り海に潜り、アフリカ、インド、中南米と旅してきた私にとって、それらは本に載っている知識としてではなく、時には手が震えるほどの恐怖として、時には涙が出るほどの喜びとして肌で実感してきた事実だったのです。
 また、ずっと関西で生まれ育ってきたのでそれ以外の場所で日本を再確認してみたいとも思いました。
 ながれついた静岡で三年間調理の仕事についた後、大阪に戻ってお金をためつつ、本格的に海外で生活するための準備を始めました。私はバルセロナで語学留学するため、スペインの学生ビザの申請手続きをしました。

 日本で海外への就職活動はしてみましたが自分にできるような仕事は見つからず、インターネットなどで情報を集めても、就職するためには相応の語学力と専門分野でのスキルが必要で、労働許可を取得するのは不可能に近い、などと厳しい内容のものばかり。
 学生ビザがあれば現地で延長することもできるようなので、とりあえず語学留学という形で現地に行き、言葉を勉強しながら仕事を探したり今後のことを考えることにしました。
 世界地図を眺めながらバルセロナを選んだ理由は、中南米で少しスペイン語に触れていたので比較的とっつきやすい言語だと思ったから。海と山があり、気候が温暖で、適度に都会で適度に田舎で住みやすそうだと思ったから。調理の仕事を通して大きくヨーロッパの文化や歴史に興味を持ったから。あとはカン。

 今回の目的は住むこと。三十歳になった私には二十代前半のころのような日本に対する嫌悪感はもうなく、素直に日本はいい国だと思えました。何より好きとか嫌いとか感じている自分が日本人なのに、そこをいくら否定してもどこにもたどり着かないでしょう。自分の中にある日本を認めたうえで、一人の日本人として海外で暮らす生き方を私は選びました。
 ひとつの民族、ひとつの国民、ひとつの種(しゅ)は空間や時間を越えてつながっているのではないかと思います。大げさかもしれませんが、ペリーの黒船や第二次世界大戦の敗戦から続くコンプレックスを今現在の私たちも背負っています。たくさんの日本人がその人なりのスタイルで外国の人たちと対等に接することは、今後の日本にとってもきっとプラスになるでしょう。日本という国が国際社会の中でどうゆう方向に向かっていくのかという問題と、一人の日本人がたくさんの外国人の中でいかに生きるべきかという問題は、もちろん意味もスケールもまったく違いますが根底では共通しているものがあると思います。
 そして海外で生きていく私の生活もまた、ほんのささやかですが未来の日本とつながっていくことでしょう。
 もちろんお国のためにスペインへ行くわけじゃなく、私自身の中のドキドキワクワクがまずあっての話ですが。

 もし山登りをはじめていなければ、今の私はなかったでしょう。

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