2007年目次

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icon2月18日
icon3月4日
icon3月25日
icon4月8日
icon4月22日
icon4月24日
icon4月27日
icon5月4日
icon5月18日
icon6月5日
icon6月13日
icon7月18日
icon7月26日
icon8月2日
icon8月9日
icon8月13日
icon9月3日
icon9月16日
icon9月23日
icon9月30日
icon10月1日
icon10月10日
icon10月17日
icon11月7日
icon11月14日
icon11月23日
icon12月9日
icon12月23日

2007年1月7日(日)

 クリスマス休みが終わり、仕事が始まった。
 休みの間毎日家に閉じこもってスペイン語の勉強をしていたが、タバコをやめたせいもあって体重が五キロも増えた。今日は数週間ぶりで自転車に乗るが、ペダルを踏みこむたびに太ももが腹を圧迫する。
 僕は物事の両立がなんてへたくそなんだろう。

 夕方カタルーニャ広場でエイコさんと待ち合わせをしてコーヒーを飲む。彼女も労働許可を取得して、今の職場でちょうど一年がたった。仕事も順調らしい。今年の春で僕たちがスペインに来てもう四年になるんだなと話をする。

 インターネットでお店の物件を探している。街を歩いていても売りに出ている物件がないか注意してみている。インターネットの情報を参考にしながらいろんなお店のプランを立てる。スペインではトラスパソ(居抜き)で開店するのがどうやら経済的で一般的なようだ。

2007年2月18日(日)

 一人で悩んでいてもうまくイメージがわかないので、実際に店舗を見に行くことにする。
 いくつかの手ごろな物件に電話をして、そのうちのバルセロナ校外のサン・フェリウにある六五〇〇〇ユーロのバルを見に行くことにする。

 不動産屋に電話すると、いつでも見に来てほしいと言うので、時間を指定してお店に行くとバルはまだ営業していた。
 スペイン人のおじさんが一人いて、あいさつをして事情を話すと中に入れてくれる。お客さんも三人ほどいて、ちょっと気まずいが別に何もいわれない。特に何の説明もされない。
 全部で七十平方メートルくらいの、スペインならどこにでもある普通のバル。四人がけのテーブルが九つとカウンターにスツールが五つほどあるので客席の広さは十分だけど、バルなので調理場が狭い。正直何を聞けばいいのかもわからないが、自分ならこの物件をどうするだろうかとイメージしながらあちこち見る。アジア人がバルの中をうろうろ見ている様子を、スペイン人のおじさんたちが客席からじろじろ見る。
 飾り付けのない壁には鏡がはってあって、扉はガラス張りのアルミサッシで特に何のデザインもない。ひまそうなおじさんがカウンターにいて、ひまそうなお客さんがコーヒーを飲んだり、新聞を読んだり、テレビを見たりしている。どこにでもある普通のバルだ。
 そうこうするうちに不動産屋の人が来て、調理場の設備や家賃や営業許可について少し説明してくれる。僕はメモをとりながら聞く。
 客席は四十席で、市役所に許可をとれば店の前に最大八卓までテラス席を出すことができる。調理場の中のガス台の火は四つで小さな鉄板がついていて、冷蔵庫が三台と冷凍庫が一台ある。客席には古いテレビとスピーカーがあって、スロットマシンとタバコの自動販売機が一台ずつ。換気扇などの調理場と客席の設備全てと、営業許可などの書類を全て譲り受ける代金が六五〇〇〇ユーロだけど、五五〇〇〇ユーロまでなら値引きが可能らしい。月々の家賃が一三〇〇ユーロで十年契約。

 実際に物件を見ると、自分のお店がリアリティを持ってイメージできるようになった。いろいろと参考になる。
 最初は少し緊張したけど、不動産屋さんから意外とお客さん扱いしてもらえてほっとした。そんなことは当たり前のことかもしれないけど、ピソ探ししていたときは全くお客さん扱いなんかされなかった。まるで書類審査で落とされる就職活動みたいだった。
 ちなみにこの物件はバルセロナ市の中心から外れすぎているので候補からのぞいておく。

2007年3月4日(月)

 今週も物件探しを続ける。何件も電話をかけるが実際に見たのは二軒。
 一軒目はサン・パウ病院のそばで三七〇〇〇ユーロ、少し小さめの五十平方メートル、家賃が八〇〇ユーロ。最初は僕一人ではじめてもいいと思っているし、小さな規模でいいと思うけど少し狭すぎる。将来のことを思うと、やっぱりもう少し広いほうがいい。
 二軒目はラス・コルツの四九五〇〇ユーロ。四十平方メートルで家賃が六〇〇ユーロ。やっぱり狭すぎるのと、目の前にすでに別の日本食レストランがある。
 こうして実際に見てまわり始めると、バルセロナ市内に日本食レストランのない地区なんかもうない。ほとんどが中国人による経営のようだけど、それでもなるべく競争相手は少ないほうがいい。

 不動産屋さんは「もう少しなら値引きするから検討してみてくれ」としつこい。なかなか買い手が見つからないんだろうか。
 世の中が不景気だという風に聞いていたが、これまでそんなことはあまり感じたことがなかった。カタオカはあいかわらず忙しいし、ピソを探してもなかなか見つからない。不動産の値段は今でも上がり続けている。
 納得のいく物件にめぐり合えるまで気長に探そう。

2007年3月25日(日)

 今週はジョアニック駅のそばのバルを一軒見てきた。
 今、店を経営しているのはまだ二十代の中国人で、奥さんらしい若い中国人女性と交代しながら二人できりもりしている。これまで見てきたお店はどこも、これから店をたたもうとしているところなので当然だろうけど、店内には活気がなく経営者も元気がない。でも、彼ははきはきしていて気持ちがいい。
 待ち合わせ時間にお店に行くと、カウンターのお客さんの相手をしながら店舗の状態についていろいろ説明してくれる。
 少し遅れて不動産屋のスペイン人のおばさんが入ってくる。
「ごめんなさいねー、おくれちゃって。あら、あなたも中国人?」
「いえ、違います。日本人です」
「あー、そうなの」
 おばさんはにこにこしながら中国人と雑談をしながら僕に聞く。
「どう? このお店。場所もいいし、すごくいいバルよ。ここに決めちゃいなさいよ」
「えっと、ここの営業許可の種類はなんですか?」
 僕が質問する。
「さあ、何かしら? ねぇ、あなた知ってる?」
「ここはC‐3ですよ」
 中国人が答える。
「C‐3なんですって。あなたたち、直接中国語で話したら?」
「僕は日本人なんで、中国語は話せないんです」
「あらやだ、そうなの。知らなかったわ、ごめんなさいね」
 おばさんはけらけら楽しそうに笑う。いい人だけど何しに来たんだよ。本当に不動産屋なのか。
「日本人と中国人が違う言葉を話すなんて私全然知らなかったわ」
 おばさんは目に涙をためて大笑いしながらまだ言っている。僕と中国人は顔を見合わせて少し苦笑いする。
 家賃の金額や店舗の設備など、僕は結局中国人から聞いてメモをとる。おばさんはにこにこしながら横でうなずいている。
 コントのようなやり取りは緊張しながら店を見てまわっていた僕をリラックスさせてくれた。次からもう少し肩の力を抜いてまわれそうだ。

2007年4月8日(日)

 今週はセマナ・サンタ(復活祭の聖週間)でカタオカは四連休。物件を見に行ったり、スペイン語の勉強をしたりして過ごす。
 今日は朝から近所の山にランニングにいく。近くに山があるとそれだけで退屈せずにすむ。
 お昼ごろ、大阪の両親に電話をして開店資金を貸してもらえるようにあらためて話をする。もし無理なら別の手段を考えなければならない。まだ僕の頭の中で店の計画がきちんと固まっていないので具体的な話はできず。

 お寿司やてんぷらなどを扱った普通の日本食レストランは、バルセロナ中にたくさんある。ほとんどが中国人の経営だけど、たぶん何百軒とあるだろう。最近うけているのはスペイン人経営のおしゃれなフュージョン料理だろうか。
 メニュー構成は大体どこも同じで、ホルヘやフェルナンドもバルセロナに古くからある老舗の日本人経営のレストランで以前働いていて、カタオカのメニューはそのお店のものをベースにしてできている。
 どこの店も調理場で働いているのはたいてい中国人で、彼らが移動するたびにレシピもスペイン中に移動していく。中国人はすごく現実的だ。彼らにとっての和食はあくまで商品であり、需要がなくなれば別の商品を探す。
 なので、日本食レストランはたくさんあるけど、まだまだチャンスもある。小さな規模でも何か一つに特化して個性を出せれば需要はあるはずだ。たとえば、たくさんの巻き寿司をファーストフード風に提供したりとか、いろんな種類のおにぎりやお惣菜を扱ったお弁当屋さんとか。うどん屋、そば屋、ラーメン屋、焼き鳥屋、串カツ屋、居酒屋、お好み焼き屋なども面白そうだ。
 僕と同世代のスペイン人男性はみんな『マジンガーZ』を見て育っている。そんな人たちが家庭を持って、その子供たちは今『ドラえもん』などを見ている。また、ユーロ高の影響で日本に旅行に行ったことのあるスペイン人も最近では珍しくない。日本に対して親近感や興味をもってくれている人たちはたくさんいるだろう。

 夜にはユリさんとパソコンのメッセンジャーで話をする。パンとお菓子作りは、やればやるほど楽しいらしい。お店で出すデザートはユリさんにまかせようと思う。本人も意欲的だし、家で家事をしながらできるし、彼女にとってやりがいのある仕事になるんじゃないかと思う。

2007年4月22日(日)

 今週も引き続き物件探し。これまでに合計数十件を見てまわってきた。
 僕の予算内で、ある程度の大きさと設備のある店舗は、たいていバルの物件だ。バルはスペインを代表する一般的な飲食店なので本当にどこにでもあるが、店によってコーヒーがメインで軽食の店だったり、ビールやお酒がメインでタパス(おつまみ)の店だったり、定食などの食事がメインの店だったりといろいろだ。換気設備によってC‐1からC‐3までのカテゴリーに分かれている。僕は食事がメインの店をつくりたいので、C‐3のなるべく調理の設備がある物件がいい。

 今週は、火曜日にトラベセーラ・ダ・グラシアとレセップスのバル、水曜日にプチェットとアルフォンス・デシムのバル、合計四軒見てくる。
 グラシアのバルはメキシコ人の若い女の人が一人でやっている小さくてかわいいカフェ。場所はすごくいいけど、調理スペースがない。
 プチェットのバルは広くてきれいで静かな住宅地の中にあり、普通のバルならいいけど僕のイメージする日本食料理屋には向かない気がする。
 アルフォンス・デシムのバルは少し狭い。カウンター席のほかに二人がけのテーブルが四つだけ。

 レセップスのバルは古くてぼろいけど気に入った。調理場は広くはないけど、一人でまわすには十分だ。地下に広いスペースがあって倉庫などにつかえる。きちんとリフォームすれば、客席としても利用できるかもしれない。
 場所は新しくできた図書館の目の前で、グエル公園へ向かう観光客が一年中絶えることがない。バルセロナの若者たちがよく出かけるグラシア地区からも比較的近く、以前この近くに住んでいて僕は気に入っていた。設備は手を加えたり買い足したりもできるけど、場所は変われない。

 数日考えて、話を進めたいと思い、木曜日にもう一度レセップスのバルに立ち寄る。
 前回と同じスペイン人の若い男の人がいて話をする。名前はアレックス、いまの経営者らしい。二十代の友達同士でバンドをしながら共同でバルを経営している。
 まず、僕の労働許可では法的に自営業者にはなれないということを説明する。でも、僕自身はこのお店を気に入ったし、何らかの方法はあるはずなので、これから調べたいと思う。彼は「問題ないよ」と言う。
「お店の譲渡も店舗の契約も、不動産会社などを通さず個人対個人でやっているので、あとは役所で登録するだけだよ。外国人でもビザさえ持っていれば大丈夫さ」
 話を聞いていると、手続きは本当に簡単そうだ。
 あと、七八〇〇〇ユーロは高いので六五〇〇〇ユーロくらいにならないかと相談する。それもあっさり承知してくれる。

 金曜日にもう一度店舗の所有者と賃貸契約について話をするためにバルへ行くが、不動産のオーナーはこず。スペインでは別に珍しいことでもないので気にせず、とりあえずアレックスと譲渡の話を進めることにする。オーナーと電話で話したところ契約に関しては本当に問題はなさそうだ。とりあえず、三〇〇〇ユーロの手付金を払っておく。
 土曜日、ホルヘが休みだったのでフェルナンドに「ちょっと急だけど、今月いっぱいでカタオカの仕事をやめたい」という話をする。ここで仕事をしている間、彼には本当にお世話になった。
 まだ店舗の契約が決まったわけではないけど、こうなったらじっとしていられない。夏のオープンをめざしてこれから忙しくなる。

 今日はレセップス周辺をあらためて歩きまわる。メトロの駅前は大規模な工事中だけど終れば大きな広場ができるらしい。
 僕は大阪の両親に電話をかけて、物件が見つかったので、これから契約などの手続きをはじめるというふうに話をする。

2007年4月24日(火)

 月曜日に僕はマジョルカ島のリカルドに電話して、飲食店を始めるための必要な書類や手続きについて相談する。
「そのバルはちょっとあやしいね。お金も数回に分けて払ったほうがいいんじゃない? 前の経営者に借金か何か問題があったら、それまで引き継ぐことになるよ」
 でも、これまでいろんな物件を見てきたけど、こんないい場所はもう見つからないかも。

 今日、上司であるカタオカのミゲルと、仕事をやめたいという話をする。フェルナンドから話は聞いているはずだ。ミゲルはオーナーではないけど、ホルヘと二人でお店の経営を任されている。彼が言うには、退職の十五日以上前に伝えなければならなかったので、僕は五日分の給料を引かれるらしい。別にやめる日はいつでもいいと言っているので、急だけど今日でやめることに決める。仕込みは十分余裕があるし、次の人への引継ぎも特に問題ないだろう。
 お金もほしいけど時間もほしい。

 あちこち物件探しをしているときに見つけた不動産会社が法律事務所も経営していて、そこの人を紹介してもらってお昼の仕事の後に相談に行く。不動産や店舗に関する法律だけでなく、移民法も専門にしているようなので心強い。
 まず、僕の労働許可でも家族であるユリさんと二人で有限会社をつくってその中で雇われている形にすれば、実質経営者としてお店を持つことができるらしい。  もう六十歳くらいだろうか、マイテおばさんはいろいろ教えてくれる。そして、彼女から直接アレックスと店舗のオーナーに電話して、契約などの話をしてくれるらしい。それも助かる。僕だけで契約の内容を確認したりするのは不安だ。
 マイテの事務所を出て少しすると、店舗のオーナーから携帯に電話がかかってくる。
「法律事務所に相談しただろ。余計なことするな。有限会社をつくるって言ってたけどそんな必要はない。役所で登録すればいいだけだ。面倒なことをするな」
「いや、でも僕の労働許可では、そうしないといけないらしいんですよ」
 一応一通り説明するが納得していないようだ。法律事務所が出てきたとたんこれだけ態度が変わるところを見ると、きっと何かやましいことがあるんだろう。

 そんなわけで、新しいお店の話は宙ぶらりんのまま、僕は無職になった。

2007年4月27日(金)

 水曜日に法律事務所のマイテに相談に行く。有限会社をつくれないとしたら、誰か代わりに書類上の責任者になってくれる人を探さなければならない。
 で、アキコさんやケンジさんに会って、事情を説明してお願いしてみるがやはり断られる。
 正直、書類上の経営者になるとどんなリスクをともなうのかが僕にもうまく理解できていないので、どのような埋め合わせをすべきなのかもわからないし、うまく説得しきれない。

 金曜日に、またマイテに相談しようと事務所に行くが彼女は留守。契約の約束をしていたのは今日なので、今日中に何とかしなければならないのだが、なんともならない。
 しかたがない。残念だけどレセップスのバルはあきらめることにしよう。久しぶりに日本語の文庫本を読みながら、気持ちを切り替えるためにゆっくりと家で過ごす。
 やっぱりどうもあのオーナーは怪しい。契約できたとしても、後々何かトラブルが起こっていたかもしれない。
 いつ以来だろうか、本当に何も考えずにゆっくりと寝る。

2007年5月4日(金)

 今週は再び物件探しを始める。祝日を一日はさんでいたのであまり動けなかったが、三軒見に行く。
 まず、ウニベルシタットのそばのイタリアンレストラン。店舗はすごく広いけど、値段が僕には高すぎる。いまの経営者はイタリア人で、ずいぶんいい加減なことを言って勧めてくる。
「お金なんか銀行にいけばすぐ貸してくれるよ。なんなら、おれが紹介してやるよ。な?」
 次がランブラ・ダ・バダルのそばのエクアドル人のバル。金額も手ごろで、客席は五十席くらいあり調理場も広く、忙しくなったら三人位で作業ができそうだ。ただ場所があまり好きじゃない。街の中心から離れていて、南米人などの移民が多い。
 最後がウルジェイ駅のそばのスペイン人のバル。二階にも客席があってスペースは十分。調理場は狭いけど最低限のものは一応そろっている。候補に残しておいて検討することにする。

 レセップスのバルは手付金を返してもらう方向で、法律事務所のマイテおばさんに相談する。今回の話がまとまらなかったのは僕の責任ではない。アレックスに電話してそう話をする。すると彼は言う。
 「オーナーは、彼と君と二人で有限会社をつくるのはいやだと言っていたんだよ。君がつくる分には何の問題もないはずだ。もう一度話しあってみたらどう?」
 オーナーとアレックスと僕とマイテと電話で話をしている間に、少し食い違っていたのかもしれない。もしそうだとすれば最初の予定どうり、僕とユリさんで有限会社を作ればいいだけの話なので何の問題もない。

 カタオカに行って最後の給料を受け取る。給料は引かれていたけど、夏のボーナスなどを集計してくれていたので合計一八〇〇ユーロ近くあった。

2007年5月18日(金)

 一度、アレックスと僕と、マイテの事務所に集まって三人で話をした。マイテおばさんからあらためて店舗の所有者に電話してもらう。やっぱりどんな形であれ有限会社はいやらしい。理由はわからない。
 アレックスは僕に売りたいと言っていて、僕も買えるのなら買いたいと思っている。
 唯一残された方法は内緒で有限会社をつくっちゃうことだそうだ。僕の労働許可でも五年たてば自分で独立もできるようになる。それまで残り三年の間ばれなければ問題ないらしい。
 でも、そんなにうまくいくかな。そんな感じでその日は話を終える。

 僕は引き続き物件を探しながら、スペイン語の勉強とランニングを毎日続ける。
 火曜日に、一週間ぶりでマイテと連絡がとれて電話で話をすると、レセップスのバルの件はあきらめたほうがいいだろうと言う。手付金の三〇〇〇ユーロは戻ってこなければならないので、アレックスに話してくれるらしい。まあ、しかたがない。
 手付金を返してもらえるように僕からも電話してみるが、彼はまだ僕に売るつもりでいるようだ。「お金はもうない」と言って、簡単には返しそうにない。そもそも、いまのバルが赤字だから売ろうとしているんだろうし、お金は本当にないんだろう。

 今日もう一度ウルジェイのバルに行く。七万ユーロで場所も悪くない。ここ最近周辺を毎日歩き回ってここに決めた。
 バルセロナ大学から地下鉄で一駅、カタルーニャ広場から二駅、エスパーニャ広場からも二駅。周りはにぎやかな地区ではないけど、住宅と会社もたくさんあって、街の中心地からのアクセスもいい。中級ホテルがたくさんあって語学学校などもある。古くて汚いのは掃除をすればいい。場所が良くてスペースさえあれば、後々修正できる。
 月曜日までに手付金七〇〇〇ユーロを用意してくるということで話がまとまる。

2007年6月5日(火)

 マイテの事務所でいまの経営者のスペイン人のおばさんに手付金を払って書類を交わした。これで物件の譲渡が仮決定。七月中に僕は残りのお金を全て払って、八月から契約して、店内の準備さえできればすぐに開店できる。

 食器類などをそろえるために僕は日本へ一時帰国する。そして、ユリさんとユキと一緒にバルセロナに戻ってきて、また三人で生活する。
 ユリさんにはお店のデザートをまかせたいし、ほかにもメニューや内装などいろいろ相談したい。ユキは今二歳半で、今年の十二月で三歳になるので、公立の幼稚園がこの九月からはじまる。二年間かかったけど、これでお店がうまくいけば家族三人で一緒に暮らしていくことができる。
 僕は六月十四日から七月十六日までの日本行きのチケットを買った。

2007年6月13日(水)

 手付金を払って場所が決まると、これまでやっていた物件探しをする必要がなくなったので少し時間に余裕ができた。日本へ行く日程も決まったので、おみやげを買ったり準備をする。スペイン語の勉強とランニングは続ける。

 ユリさんと電話で相談しながら、これからの計画を練る。
 お店のあるエイシャンプラ地区にもたくさんの日本食レストランがすでにある。他にはない個性をうまく伝えなければならない。
 海外の人たちが日本に持っているイメージは大きく分けて二つ。一つはサムライなどの歴史のある伝統的でエキゾチックなイメージ、もう一つはハイテク技術や工業製品などの経済大国のイメージ。そして、実際の僕たちの日常生活のなかにはその両方が混ざり合っている。そこで僕は、海外向けに着飾った日本ではなく、日常のままの素顔の日本を紹介していきたいと思う。
 メニュー構成は、丼ものなどの家庭料理をメインに置く食堂にする。これなら実際にオープンしてから、お酒に力を入れたり、お持ち帰りを充実させたり方向修正が簡単だ。一人でもやりようがあるし、客席数はあるので人を雇ってもいい。
 スペインでも、和食といえばまず誰もがお寿司を思い浮かべる。でも、この小さな規模でお寿司までやると、品質、値段設定、結局どこにでもある中国人経営の日本食レストランと変わらなくなってしまう。生魚を扱わない代わりに、伝統的な和食にこだわらず、カレーライスやオムライスなど普通の日本人が普通に食べている家庭料理を提供していこうと思う。

 月曜日にもう一度ウルジェイのバルに行って店舗の写真を撮っておく。これを参考にしながら、日本で店の内装と外装の飾り付けを買ってくる。

 マイテに電話して、これからの契約の手順を確認しておく。
 そして、ついでにレセップスの手付金について聞いてみるが、どうも難しいようだ。裁判をおこせばたぶん僕が勝つらしいが、相手にお金がなければ裁判で勝っても手付金は戻ってこないらしい。お金と時間をかけて裁判をおこしても、手付金が戻ってこないんじゃ意味がない。マイテおばさんもあきらめたほうがいいだろうと言いたげな口ぶりだ。

 今日、家の近くの公立の幼稚園でユキの入園手続きをする。僕は近所の口コミネットワークに全く接点がないので、幼稚園の良し悪しはわからないけど、家から一番近い幼稚園で手続きをすることにする。少し学校を見て、園長さんとあいさつをした感じではよさそうだと思った。
 学校の中には幼稚園と小学校が一緒になっている。壁には子供たちの書いた絵や工作が一面に貼ってあって、廊下ではいろんな学年の子供たちが一緒にふざけあっている。僕のほうを興味深そうにじろじろ見ている小さな子供もいる。もうすぐこの中にユキも混ざって遊んだり勉強したりするんだろうと想像するとなんだかほほえましい。

 そして、僕は明日日本に出発する。

2007年7月18日(水)

 日本での滞在期間は一か月あったので、あれこれと準備するのにも余裕があった。
 大阪の両親とあらためて話をしてお金を借りる。用意してあった大金を僕に手渡すとき、最後に父は言った。
「おまえの弟にも子供がいて、おれたちにも老後の生活がある。お願いだからもうこれ以上、こっちの家族には迷惑をかけないように、それだけは絶対に約束してくれ。まぁ、がんばれ」
 十八歳で登山をはじめて、大学を休学、留年、二十代の間実家にお金も入れずに転職、引越し、放浪を繰り返し、三十歳をすぎてでき婚、そして親に多額の借金の申し込み。僕がこれまでやってきたことは、こう言われても仕方がないんだろう。でも、生んでもらったこの人生を全力で進み続ける以外に、僕にはできることが思い浮かばない。
 自分が本当に正しいと思えることを行動しないのだとしたら、一体何のための命だろう。

 たくさんの食器、飾り付けに使う小物類、調理器具などを買い集める。お店の方向性は決まっているけどメニュー全ては決まっていない。いろいろ試しながら固めていこうと思うので、一通りなんでもできるように、最低限のものをそろえていく。
 ユリさんと一緒に、大阪の道具屋筋や問屋や百円均一などをまわったり、インターネットで買い物をしたりしていると、三十万円くらいがあっという間になくなった。仕事の一部分とはいえ、僕は貧乏性なのでなんだか少し怖くなる。

 ユリさんは合間にパン屋めぐりをしている。僕も一緒についていく。どこも雑誌などですごく有名なお店らしいが、それでも数百円位のお金でいろんなパンが楽しめる。

 母方の祖母の米寿のお祝いに参加する。孫が四人でひ孫が九人。全員で約二〇人の親戚が集まる。
 もういないけど祖父はもともと金沢の人で、十代のころにたった一人で大阪に出てきて、丁稚奉公からはじめて自分で佃煮屋を開き、土地を買ってマンションまで建てた。全く知らないスペインに来て暮らしている僕は、戦前の大阪に生きた祖父に自分を重ね合わせた。

 日本で買った全ての荷物を梱包してスペインへ発送する。段ボール箱が合計二十個で、予定では二か月くらいでバルセロナ港に到着する。荷物を全て送ってしまうと、日本でやらなければならないことがつきて、急にぽっかりとやることがなくなってしまった。
 ユキと遊んだり、一人で本を読んだり、近くのグラウンドでランニングしたりして残りの時間を静かに過ごす。次いつ日本に帰ってこれるかわからないけど、これからのスペインでの生活を思うと遊びに出かける気分にはならない。

 一か月間の日本滞在を終えて僕は月曜日にバルセロナに帰ってきた。
 ユリさんとユキは、チケットの都合で二日遅れで今日バルセロナに着いた。彼らにとっては一年ぶりのスペインで、腰を落ち着かせて住むのは二年ぶりだ。
 二年前の僕たちはレセップスの小さなアパートで身を寄せ合うようにして暮らしていた。ユキはまだ小さな赤ん坊で、僕とユリさんはいつもいらいらして、つまらないことで言い争ってばかりいた。そしてユリさんはよく泣いていた。

 これから僕は店舗の契約の手続きをして、八月から開店の準備を始める。できれば九月、無理なら十月にオープン予定。基本的に大規模な改装工事はせずに、今ある最低限の設備で始めて、方向修正しながら少しずつ整えていく。
 これからが本番だ。

2007年7月26日(木)

 バルセロナに戻ってからの数日間は、家族三人で生活するために家の中を整理する。合間に、近くの山にハイキングに行ったり、海に泳ぎに行ったり三人で遊びに出かける。
 部屋の中は大体片付いて、ユリさんとユキも一年ぶりのバルセロナでの生活に少しずつ慣れてきた。

 今日は朝から銀行に行きお金をおろしてくる。三万ユーロの小切手と三万ユーロの現金。緊張する。
 お昼前にマイテの事務所に行き、ウルジェイのバルの経営者と譲渡の手続きをする。彼女は五十歳くらいのスペイン人女性。お店の権利などの書類をマイテおばさんに確認してもらいながら受け取る。
 これまでこのバルを経営していた彼女は、このお店を始めて一年もたたずに手放してしまう。理由はだんなさんの健康悪化。別の場所にもう一軒小さなバルを持っているので、今後はそちらに集中して仕事を続けるらしい。
 二人で全ての書類のやりとりを終えた後、彼女は大きく息をついて、目に涙をためて心のそこからほっとした表情をして、お金をバッグにしまった。それを見て、彼女がこれまで背負ってきたものを僕は今日から背負うんだなと思った。
 その後、店舗のオーナーと賃貸契約を結ぶ。家賃が七六〇ユーロ、二か月分の敷金と八月分の家賃を払う。不動産屋さんとマイテの見守る中、僕と大家さんは契約書にたくさんのサインをして鍵を受け取る。
 これでもういつでもお店をオープンすることができるらしい。

 一度家に帰ってお昼ごはんを食べた後、ユリさんとユキと一緒にお店に行く。ユリさんはこの店舗を直接見るのはこれがはじめてだ。きしんで重いシャッターを開けると、湿ってすえたにおいが暗い店内にこもっている。
 照明を全部つけてみる。あらためて見てもやっぱり汚い。冷蔵庫、ガス台、カウンター、ほこりをかぶって、手垢とあぶらが染み付いている。一体何年くらい使ってきたんだろう。ユリさんはユキを抱っこしながら、あまりの汚さに顔を少ししかめる。

 それでも今日から自分の城だ。これからの僕たち家族のスペインでの生活がこの店にかかっている。ここでたぶん僕はいろんな人たちと出会って、いろんな出来事を経験するんだろう。
 僕は、カウンターの棚に残されたほこりをかぶったウオッカのボトルに口をつけて一口飲んだ。

2007年8月2日(木)

 毎日朝から店の掃除をする。
 あぶらのこびりついた換気扇、汚れと手垢にまみれた冷蔵庫と冷凍庫、一つずつみがいてきれいにしていく。
 ガス台を少し移動する。裏側の壁の隙間や床との隙間、流し台の床との隙間など、かたまった油と生ごみとねずみとごきぶりの死骸とふんが一体化して、厚さ十センチくらいに堆積している。
 ガス台もパーツをはずして掃除する。オーブンは前の経営者のおばさんも言っていたように、火がつかない。さびて朽ち果てている。ガス台の裏側には小さなプレートが貼ってあって一九七九年の製造になっている。約三十年だ。メンテナンスもきちんとやってなかったんだろうが、もう少しの間がんばってもらおう。
 カウンターの冷蔵庫の下にも、砂埃や割れたグラスの破片や生ごみやタバコの吸殻が積もっていて、バケツに六杯分くらいのごみが出てくる。一体何年分だろうか。

 店の中で毎日掃除しているといろんな人がやってくる。
 酒屋や肉屋の営業が名刺を置いていく。前のバルで契約していたスロットマシンを引き取りに来る。共益費の集金に来る。仕事を探しているおばさんが履歴書を置いていく。近所の人がただのぞきこんでいく。

 僕は掃除の合間に、知り合いの人たちにショートメッセージを送る。九月か十月にはお店をオープンさせるということ、ホールで働いてくれる人を一人探しているということ。
 韓国人のジナから返事が来て、先月韓国人男性と結婚したという。
 僕たちもスペインに来てもう四年がたった。当時語学学校で出会ってまだバルセロナに残っている人はもうほとんどいないけど、それぞれの生活も少しずつ変化しているんだろう。

2007年8月9日(木)

 自分でできる掃除はあらかた片付いた。
 ついていなかった水洗トイレの便座を取り付け、タンクの中の部品をほとんど全部交換する。電子レンジやステレオを買ってきてスピーカーをすえつける。床の欠けている部分をセメントで塗り固める。

 今日は朝からマイテの事務所に行って、登録した有限会社の書類を受け取る。有限会社を設立するためにかかったお金は一二〇〇ユーロ。

 毎日朝八時ごろ家を出て仕事をする。通勤時間は片道四十五分くらい。夕方は七時ごろ帰って晩ご飯は家族と一緒に食べる。ユリさんは毎日きちんと部屋の掃除をして晩ご飯をつくって待っていてくれる。こんな生活したことないからなんだか不思議な気分だ。

2007年8月13日(月)

 ペンキ屋にたのんで壁と天井のペンキを塗り替えてもらう。自分でやりたかったけど二階部分への吹き抜けがあって普通の脚立では届かない。費用は六五〇ユーロ、二日間の作業予定だったけど一日で塗り終える。壁は薄いピンクで天井は白。
 契約して固定電話を引く。壁の照明に手作りのランプシェードをとりつける。会社名義のスタンプをつくる。
 今日は朝からいろんな業者に電話をかけるがどこも夏休みに入ったようだ。これじゃ仕事が進まない。
 メニューの原案を作り、店の名前を『あおい食堂(レスタウランテ・ハポネス・アオイ)』に決定する。

2007年9月3日(月)

 八月のなかばは業者がどこも休みなので、僕は家でできる仕事をしながら家族と一緒に過ごした。雨の降る日が多かったが、動物園、グラシア地区のお祭り、海や山などに出かける。お金はないけど、夏休みらしい時間をおくれてよかった。
 ユキは去年の夏に一緒に暮らしたときよりも表情も豊かでコミュニケーションも取れるので、一緒に遊んでいてもリアクションが面白い。
 動物園では大喜びでゾウやカバを見て、怖がらずにポニーに乗った。カタルーニャ広場では笑いながらハトを追いかけて、いつまでも飽きずに走り回っていた。グラシア祭りのパレードは空砲の大きな音を怖がって泣いていた。実際大人が聞いても耳が痛くなるような大きな音だ。

 今日は朝からレンタカーを借りて、バルセロナ港へ荷物を受け取りに行く。大きな倉庫が続く広い工業地域はどこまで行っても風景に変化がなく、自動車の運転に不慣れな僕は地図を見ながら堂々めぐりする。工事中の道路も多くて、古い地図があまり役に立たない。
 ようやく着いた倉庫で、二十箱のダンボール箱を大きなフォードのバンに積み込んだ後、税関に行って書類を渡し税金を払う。
 店まで運んで全て積み下ろすが、いくつかの段ボール箱は完全につぶれている。中を開けて確認したところ三十枚近くの食器が割れていた。保険をかけていたので、デジカメで写真を撮ってメールで連絡することにする。ある程度覚悟はしていたので、これなら許容範囲内だ。

2007年9月16日(日)

 インターネットで偶然見つけた日本のデザイナーの人に、ロゴマークを無料で作ってもらう。大阪の、僕と同じ街の出身らしい。
 これまで自分でデジタルプリント屋に相談に行っていたけど、それよりもずっといいのができたと思う。このデザインをベースにして外の看板と店のカードをつくる。

 調子の良くない冷蔵庫やガス台などの修理と調整をする。冷蔵庫はあちこちさびて扉もがたがたなので、ドアのハンドルを交換して古いねじを取り替える。でも、営業を開始したら中のモーターがいつまでもつか心配だ。ガス台もさびと油でかたまって空気量を調整できない。パーツを取り寄せようとメーカーに電話をするが、古くてもう扱っていないらしい。三十年前のモデルだから当たり前か。
 日本から荷物が届いたので、食器や調理器具を並べ、暖簾などのデコレーションを取り付ける。
 ユリさんと一緒にカトラリーやタッパーなどの調理器具を買いに行く。ユリさんがいるとあれこれ相談ができるけど、子供を連れていると何をするにも時間がかかる。

 ユキは今週の水曜日から幼稚園がはじまった。これでユリさんも少し自分の時間がもてるようになる。公立なので学費は一年で一二〇ユーロ。制服なども大きな出費にならず安心する。
 二〇〇四年生まれの、今年満三歳になる子供たちが九月から幼稚園に入園する。ユキは十二月生まれでまだ二歳九か月なので、同級生の中でも目立ってからだが小さい。公立の学校では言葉はスペイン語ではなく、カタルーニャ語(カタルーニャ地方の言葉)なので大変だろうと思うが、うまく順応していってほしい。バルセロナで生きていくのであれば、カタルーニャ語はさけて通れない。

 週末は業者もお店も休みで仕事がすすまないので、今日はユリさんとユキとバスに乗って山のふもとの公園に行く。林の中をハイキングがてら歩いて登っていくと、小さな汽車のミニチュアがあって、一人一・五ユーロで乗れる。よくできていて、本当に石炭で走っている。ユキは緊張して固まりながら周りの景色を見ていたが、トンネルに入ると突然真っ暗になり音が大きくなったのに驚いて、ユリさんにしがみついていた。

 今日ユキはトイレに行って、自分でパンツを脱いで一人でおしっこをした。「まだ教えていないのに」とユリさんは感動して喜ぶ。学校でおぼえてきたようだ。

2007年9月23日(日)

 アクリル板にデジタルプリントで、イメージどおりの看板が出来上がった。日本食材を扱っている会社から商品リストを取り寄せる。
 準備のためにいろんな業者に問い合わせるが、どんなささいなことでもすぐには来ない。電話会社、印刷屋、食料品屋、ペンキ屋、何度も催促の電話をかけてようやく返事が来る。

 基本的な食材もそろったので、調理場を使ってみる。鶏のから揚げなどの試食をしながら調理場内を使いやすいように整理していく。
 今日はユリさんが久しぶりにお店に来た。
「だいぶん、きれいになったね」
「でもまだ飾りつけが足りない。どうしようか」
 あるものを使ってアイデアを出し合う。
 お昼にタカヒロさんに来てもらって、冷凍庫を二階から一階に運ぶのを手伝ってもらう。これだけは一人では無理だった。

 オープンまであと一週間。最近、緊張のせいで夜うまく眠れなくなっている。

2007年9月30日(日)

 店内の飾りつけはまだ少しさみしいけど、一応お客さんが入れるような状態にはなった。

 調理場は僕一人で大丈夫だけど、ホールを任せることのできる人を一人雇おうと思う。店の前に求人の貼り紙を出したら何人かの人が履歴書を持って来てくれたので、そのうちの一人に来てもらうことにする。
 名前はジョルディ、もう四十代後半くらいのスペイン人、ホール経験も二十年近くあってこの地域にも詳しい。あおい食堂の向かいにあるバルを昔自分で経営していたことがあるらしい。いろいろわからないことを聞いたりホールの仕事を整えたりしてもらえるだろう。
 ユリさんには、子育てと家事の合間にデザートをつくってもらうことにする。たぶんきっと彼女にとってぴったりの仕事じゃないかと思う。本人も楽しそうにメニューを考えている。

 昨日と今日の二日間、僕は店に泊り込んで、ユリさんに手伝ってもらいながら最後の追い込みをする。全部のメニューを仕込んで試食して、ユリさんにも食べてもらって盛り付けや味付けなどを調整する。何とか一通りのメニューがこれでできた。後は、お客さんのリアクションを見ながら修正していこうと思う。
 緊張する。二十四時間心臓の鼓動が静まらない。

2007年10月1日(月)

 朝からカマレロ(ウェイター)のジョルディとマイテの事務所に行って労働契約の話をする。
 その後店に行って、予定通り一時に開店する。以前、この場所は普通のバルだったので、近所に住んでいるお客さんが十人位来てくれるが、みんな落ち着かない様子でカウンターで立ったままビールを飲んでいる。それでもありがたい。お昼の営業時間内に食事をしに来てくれたのは結局ミカさん一人だけだった。
 空いてる時間は店の前で、ユリさんがサービス用につくった黒ゴマと抹茶のクッキーをビラと一緒に配る。
 夜は二組ほど入って食事をしてくれる。

 あおい食堂第一日目の売り上げは、一一五ユーロ六十センティモ。自分の店で自分でかせいだお金だ。もちろん全然足りないけど感無量。何より第一歩を踏み出せたことがうれしい。ここから少しずつ前進していけばいい。

2007年10月10日(水)

 あおい食堂が開店して今日が十日目。ここまでの一日平均売り上げ、一三八ユーロ。あいかわらずお客さんは少ないけど、スペイン人の人たちはみんなおいしいと言ってくれる。何人か来た日本人の人たちは例外なくあれこれと指摘してくれる。
 寿司をやらないとスペイン人は来ない。内装の雰囲気が良くない。自分ならこの店にはもう来ない。など、聞いていないのにいくらでも出てくる。
 そう言われるとくやしいし落胆もする。今に見てろって思うけど、実際お客さんが来ないから何も言えない。でも、みんな優しさで言ってくれているし、いくつかは思い当たるふしもある。自分でわかっているから腹が立つのかもしれない。全て今後の参考にする。

 夜、最終の地下鉄で家に帰るとユリさんとユキはたいていもう寝ている。朝起きて、ユリさんに前日店でおきたことを話す。メニューや内装のデザインなど、いつも相談にのってもらっている。家事と子育てでお店に来られない彼女にもいろいろ知ってもらいたいと思うし、僕も話を聞いてもらうとすっきりする。腹が立ったこと、うれしかったこと、お客さんのこと、一緒に働いているウェイターのこと、お金のことなど、思いついたことをなんでも話す。
 他に話を聞いてもらえる人が僕には一人もいない。よく考えると、スペインで仕事の愚痴を言えるような友達も一人もいないし、そんな話をこれまでしたことなんかないことにはじめて気がついた。
 スペインで一人で子育てをしているユリさんにとってもそれは同じことだろう。

 定休日の日曜日は調理場でメニューの試作と客席の飾りつけ。ユリさんにもお店に来てもらい、料理を試食してもらう。ボリュームを重視しながら価格を見直す。
 今日から八ユーロでお昼の日替わり定食を開始するが、一つも出ず。

2007年10月17日(水)

 あおい食堂がオープンして三週目に入った。毎日朝から買出しと仕込みをしてお昼にはお店を開けて、お昼と夜の合間には近くの地下鉄の駅前でビラを配る。夜遅くまでメニューを修正したり日替わりランチを考えたりする。やらなきゃいけないことと、やりたいことがたくさんあって、一日が何時間あっても足りない。
 お客さんはあいかわらず少ない。

 ウェイターのジョルディが明日でやめると言いだした。なんとなく、最初からそういうつもりだったんじゃないかなという気がした。代わりに知り合いのスペイン人を連れてくる。三十歳位の小太りのスペイン人で名前はカルロス。数メートル横の交差点のバルで働いているらしいが、特に問題もなさそうだし、他にあてもないのであさっての金曜日から来てもらうことにする。

2007年11月7日(水)

 十月の売り上げの合計は三六一一ユーロ。一か月の間特に売り上げが上がっているようには感じない。損益分岐点(赤字と黒字の境界線)はまだまだ先だ。
 毎週の売り上げは、毎週の仕入れや雑費などで消えていく。十月分のカルロスの給料と、十一月分の家賃は僕の銀行口座から下ろしてきて支払った。
 ユリさんにきまった生活費はまだ渡せず、「お金がなくなったんですけど」といわれるたびに、「すいませんけど、これで当分何とかしてください」と、お店の金庫から五十ユーロとか一〇〇ユーロを手渡す。
 九月と十月の電気代が一四〇〇ユーロ、銀行口座から自動的に引き落とされた。二十万円以上の電気代なんてありえない。すぐに電力会社に電話をかけて問い合わせる。前のオーナーが電気代を滞納したまま出て行ったんじゃないかとか、どこからかケーブルをひいて電気を盗まれているんじゃないかなど、いろいろ想像する。とにかくすぐにお金を返してもらわないと生活も仕事も困る。
 三か月から半年近くの運転資金は確保していたつもりだが、びっくりするようなスピードでお金が消えていく。日本の僕の銀行口座に残していたお金のうちの五十万円をスペインの口座に移すことにするが、今のペースで赤字が続けばこれも焼け石に水だ。

 僕はあいかわらず朝から晩までお店で仕事をしている。ミカさんにデザインしてもらってつくったチラシを営業時間の合間に街で配り続ける。休みの日にはユリさんに協力してもらって客席の飾り付けをしたり、メニューブックをパソコンでつくったりする。
 ユリさんとはあいかわらず定期的に言い争いになる。

2007年11月14日(水)

 毎日の売り上げで一喜一憂する。本当に神様ありがとうっていうぐらいよろこんだり、これから家族をどうしようかと悩んだりする。きりきりと胃が痛む。
 売り上げの悪い日があると、まず理由を探す。天気が悪かったからだろうとか、バルサの試合があったからだろうとか、景気が悪いからだろうとか。理由があると売り上げが悪くてもしかたがないような気になる。
 数日お客さんの入りが比較的良いとほっとする。でもトータルするとなぜか全然売り上げは増えていない。
 毎日お金の計算をする。お金を数えている間だけは胃の痛みが和らぐ。数え終わるとまた痛んでくるのはわかっているけど何度も数え続ける。

 ユリさんは一週間以上前からずっと機嫌が悪い。最初は、僕が何か気に障ることをしてしまったんだろうと考えたけどそうじゃないらしい。何もする気がおきないようで、何を話しかけても全く興味を示さない。僕もお店のことやお金のことなどストレスのかかりそうな話をするのを控えて、そっとしておくようにする。

 今週の日曜日はユリさんが一人で休めるようにと、僕はユキと二人で近くの山に散歩に出かける。ユキは公立の幼稚園に通い始めてカタルーニャ語の単語を少しずつ覚えてくるようになった。虫や蝶を指差して僕の知らない単語を言う。
 僕はユキの手をつないで山から街を見下ろす。街の向こうの地中海にはヨットやフェリーが浮かび、眺めているとゆっくり動いているのがわかる。
 僕たち家族の未来の生活が、全て今の僕にかかっている。

2007年11月23日(金)

 お店の売り上げはあいかわらず、いい日があれば悪い日もあり平均すると特に変化はしていない。
 ガイドブックに広告を載せることにする。ビラを配り続ける。店の前の表示をわかりやすくする。

 ユリさんの機嫌は十一月の初旬あたりからずっと悪かったが、一週間くらい前から全く口をきかなくなった。これまでは少しくらいの会話はしていたが、それもなくなった。突然の変わりように僕は驚いた。
「おはよう、大丈夫? どうしたの?」
 昨日までも無口だったけど、朝起きておはようも言わなくなった。どうしたんだろうと思って彼女に聞くが、何の返事もない。こっちをふりむきもしない。何かを見ているような何も見ていないような、冷たい目をしている。
「どうしたの? 何かあったの?」
 刺激しないように静かに聞く。彼女は静かに回れ右をして寝室に入る。僕も後を追うが、閉めた扉を中から押さえていて開かない。僕のほうが力は強いので無理に開けようと思えば開けられるけど、悩んだすえそのままにしておくことにした。
「じゃ、仕事にいってくるよ。家事の合間にできるだけ休んだほうがいいよ」
 僕は扉越しにそういって仕事に出た。
 その日から、彼女は全く声を発しなくなった。

 僕は一日中お店にいるので、ユリさんと会うのは朝の短い時間だけだ。なので子供とすごすときはどうしているのか知らない。幼稚園の送り迎えのときに、先生や他のお母さんたちとどうしているのかも知らない。
 僕は何も言わない彼女に「おはよう」とあいさつをして、毎朝当たり障りのない話をほんの少しずつした。答えを求める質問はしないようにした。
 ユリさんは僕の顔を全く見ないし、返事もあいさつもしない。そんな状態が一週間くらい続いた。

 昨日の朝もいつものようにユリさんにあいさつした。
「おはよう」
 ユリさんは小さな声で返事をした。
「おはよう」
 僕はびっくりした。でもまだ顔つきは昨日までと変わらず無表情のままだ。いつもどうり僕は朝の支度をして、ユリさんに少し話しかけた。返事は特になかったけど、ちゃんと僕のほうを見ていたようだった。本当に心のそこからほっとした。

 今朝もおそるおそるユリさんにあいさつした。
「おはよう」
「おはよう」
 よかった、少しずつ良くなってるみたいだ。僕は家を出る準備をしながら、ユリさんに少しずつ話しかけてみる。
「昨日までどうしてたの? ちょっと様子が変だったけど」
「変って?」
 ユリさんはきょとんと驚いた顔をして聞く。
「いや、この一週間くらい全然口をきかなかったよ。あいさつもしなかったし、僕のほうを見もしなかったし」
 ユリさんのこれまでの様子を僕は簡単に説明する。
「ほんとに? そんなわけないよー」
 ユリさんは本当に驚いた様子で、おかしそうに笑いながら答える。
 あ、記憶がないんだ。背中に汗が吹き出た。僕は全力で笑顔をつくって言った。
「いや、じゃいいんだよ。仕事に行ってきます」
 僕はユリさんを抱きしめる。
「家事の合間にはなるべく休んだほうがいいよ」
「うん、ありがとう。どうしたの? ヒトシさん、なんか今日変だよ」
 僕はいつものようにお店に行って、いつものように夜遅くまで仕事をした。毎日の仕事が全て未来の家族のためだと僕は思っている。

2007年12月9日(日)

 ユリさんの記憶は戻らず、僕もあまりそのことにふれないようにする。何度か彼女に説明したけど、いまだに信じられないようだ。
 次の週末にはまた一緒にお店の話をしたりできるようになった。以前のユリさんに戻った。

 十一月の売り上げ合計は三四四五ユーロ。一日平均だと十月よりもほんの少し良くなっているが、合計金額は少し下がっている。どっちにしてもほとんど変わっていない。
 メニューの料理の種類を二十二から三十に増やす。

 ホールの仕事は基本的にカルロスに任せている。前にいたジョルディも経験者だったし、お客さんのほとんどはスペイン人なので、接客の仕方などはスペイン人が思うようにやったほうが良いだろうと思った。日本食のことは何も知らないので一つ一つ説明する。あと、たまに日本人が来たときは、やり方が少し変わるのでそういうことも教えておく。僕があいている時は僕が接客することもある。
 彼の仕事時間はほぼ営業時間と同じで、お昼は午後一時から四時半まで、夜は午後八時から十一時半まで。お客さんが全くいないときは閉店を少し早くすることもあるし、忙しければ少し遅くなることもある。
 お客さんが少ないので、何もせずに手持ち無沙汰にしていることのほうが多い。空いている時間に掃除をするように言うとやるけど、あまりいい顔をしない。文句は言わないが、いい顔をしない。夜十一時前後にお客さんが入ってくるといらいらし始める。僕はあまり気にしないが、お客さんからクレームが来ることがある。本人に注意して、オーダーストップの時間と閉店時間と仕事時間の説明をする。一応「わかった」とは言うが、あまりいい顔をしない。

 売り上げは良くないけどお客さんの反応は悪くない。みんなおいしいといってくれる。たんなる社交辞令かもしれないけど励みになる。

   

2007年12月23日(日)

 銀行でお金を借りる相談をする。資料をもらって金利などの説明を聞く。大阪の両親にも相談する。いくらか用意してもらえるようなので、お願いすることにする。
 今手元にあるお金とこれから追加で借りるお金で当分は何とかなるはずだけど、今のペースで減り続けるとあと半年くらいでなくなるだろう。今年の夏までに黒字に乗らなければ店を閉めることに決める。
 これまで日本から借金してきたお金は全部で約一〇〇〇万円以上になる。この借金にシビアなタイムリミットがついていたらと考えるとぞっとする。こういうのをこじらせて自殺する人だって世の中にはたくさんいるだろう。毎日胃が痛い。
 スペインで就職をして、家族を養いながら借金を返していくのはほぼ不可能なので、店を閉めることになれば日本に帰らざるをえないだろう。
 でも、どっちが僕たち家族にとって幸せなことなのか、今の僕には全くわからない。

 今日からお店はクリスマス休みで四連休に入る。僕は一人で冷蔵庫の中のものを整理したり、掃除をしたりして家に帰る。

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